2022年8月12日金曜日

弟子たちの頼み事と主の御思い(8)

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、・・・」(マルコ10 ・45)

 『僕』の生活。これは主が命じ給うのみでなく、実行された生活である。否、これがために父の御許を離れて地上に来たり給うたのである。天の父もまた愛のゆえによって私どもの僕のような態度をとっておられるのではないか。如何に多く私どものために、黙って働いておられることであろう。黙々の奉仕、これが天の父の御姿であり、主イエスの御一生である。

 されば、また私どもの生涯であらねばならない。最初はつまらないように感じられるけれども、主を仰ぎつつやっていると次第に妙味が生じて来るのは実にこの生涯である。人にかくれて美味いものを食べるような味が出て来るのはこの生活である。奉仕、この文字をありふれた意味でなく、深く噛み締めて心と手で味わって行くと、その中からそれ自体の持ち味が報酬となって現れてくる。

祈祷
主よ、あなたの生活とあなたの教訓とは、私を欺かないことを知って感謝申し上げます。あなたはしもべとして歩む生活の中に蜜と蜂蜜とを蔵し給うことを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著224頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻はいよいよ最終結論に入るが、ここでDavid Smithの『the Days of His Flesh〈受肉者耶蘇〉』の前回http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/08/blog-post_7.htmlの続きの文章を紹介する。

8「多くの人の贖い」

 これ実にその価値量るべからざる教訓である。イエスはその死が最高緊要にして絶対的必要な所以を絶えず力を極めて説かれたけれども、贖罪の教義はこれを使徒に委ね、聖霊の啓導によりこの神聖神秘な真理に感激してその意義を発見せんことを任された。しかもなお含蓄豊かな多くの暗示を授けられたのであって、使徒たちの教義は畢竟これらを敷衍したにすぎないのである。その礼典のみことばをもってそれを『わたしは、天から下って来た生けるパンです』と言い『だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます(死なない)』と仰せられ、またその肉は『まことの食物』またその血を『まことの飲み物』なりと宣うた〈ヨハネ6・51、55〉。さらにまたイエスは自ら良い牧者ですと言い、良い羊飼は特に貪婪な狼より羊を救わんがためにその生命をも捨てる品質ありと仰せられた〈ヨハネ10・11〜13、17〜18〉。今、ここでは『多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです』と宣うた。

 これを聞いて弟子たちは如何なる想像を描いたことであろうか。これは毎月ユダヤ人は成年に達すれば一人半シェケル宛を神殿の会計へ『あなたがた自身を贖うために、主に奉納物〈出エジプト30・12〜16〉』として納めたことを示されるのであろうとも思われた。しかし、なお他の意義も彼らの想像から逸しなかったことであろう。ユダヤ人はその歴史が紛々戦争に満ちておるために、異邦の領主についてのイエスの説明の彼に『贖い』と言われるのを聞いて、弟子たちは戦争中に捕らえられて、征服者の奴隷となっている俘虜の贖いであると考えたことであろう。

 ここに使徒たちの贖罪論の発端がある。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。』〈ガラテヤ3・10、13〉と聖パウロは言った。また、聖ペテロが『あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです』〈1ペテロ1・18〜19〉と記すにあたっては、その主のこの絶大なみことばを心に描いたに相違はない。

 これただに比喩たるのみならず、福音の中心を為す真理であって、これなくんば、イエスは世の罪のために死に給い、その死によってすべての信者に永遠のいのちを与えられる福音は存在しないのである。)

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