2022年8月23日火曜日

ろばの子(上)

言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」(マルコ11・2、3節)

 この入城の時のイエスの動作はすべてが平素と全く違っている。神より遣わされた『王』としての威光を示しておられる。一度もご自分のために奇蹟を行ったことのないイエスが今日は神の全知を露骨に現して、向こうの村にまだ人の乗ったことのないろばの子のあることを告げた。しかも詰問する人がなかったら、黙って徴発してしてくるように命じたのである。

 しかり、イスラエルの『王』として臣民の所有物を徴発する権能のあることを示したのである。もし詰問する人があったら『主がお入り用なのです。』と言えと訓令したのも同じくご自分の大権を暗示しておられる。この『主』という字は大きな文字であってほとんど『エホバ』の代用語となっている。

 イエス御昇天後には弟子らがたびたび用いたところであるが、ご在世中には余り用いていない語である。その語をご自分で用いておられる。その他ことさらに『まだだれも乗ったことのない』点を御乗用のろばの条件としておられることなどを総合して考えると、この最後の御入城には、特に注意し、御自身を神の子である救い主として提供されたのである。

祈祷
人の子にして神の子である主イエス様。あなたは卑しき生活を送り給いたれど、天地を所有し給う全能全知の神であることを讃美申し上げます。我が持てるろばの子のみならず、一切はあなたのものであることを認め、喜んであなたに仕える者とならせて下さい。アーメン


(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著235頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌54https://www.youtube.com/watch?v=F4E_qjwlb44

クレッツマン『聖書の黙想』より〈174頁〉

 この地で、彼らは主のお命じになるところに従って、ろばとその子ろばを見つけ、主のもとに連れて来た。この子ろばは今までに、誰も乗ったことのないもので、ダビデの都へ、イエスがつつましく入って行かれる時の用意として、ーーこの日に関する預言が、ことごとく成就するためにーー自ら、お選びになったものだった。この時、弟子たちは、主が久しく待たれた王として、メシヤとして、今、ついに、登場なさるのだと言う高らかな希望に胸をふくらませていたに違いない。

David Smith『受肉者耶蘇』より〈758頁〉

  ベタニヤに程近く、山の中腹にベテパゲと言う村があって、恐らくこの辺りの無花果樹、棕櫚樹、橄欖樹の畑の園丁と思わしく、ここに住ったある知人をイエスは有せられ、かねて彼に御旨を含められていたものと考えられる。早天エルサレムに向かわられるに当たって、前もってかしこに行くように二人の弟子に命ぜられた。村の入り口で、門に未だ人の騎らざるものでこの神聖な用途に適するろばの子一頭の繋げるを見るべしとイエスは彼らに教えて『それをほどいて、引いて来なさい。』と命じられた。なおもしこれを解くに当たって咎むるものあらば『主がお入り用なのです』と言えとのことであった。これ蓋しイエスが彼との間にあらかじめ定められた合言葉であったろう。二人の弟子はその命に服してろばを発見しその咎められるに当たり、教えられた合言葉を用いて、これを曳いて来た。かくて弟子たちはその背に上着を脱いで敷き、イエスはこれに騎ってエルサレムに向かわれた。

※青木さんの説明の方に惹かれるが、David Smithの所説も昨日と照らし合わせ、そう言うこともあるのかと思わされた。)

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