2022年10月21日金曜日

隣人愛(転)

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコ12・31)

 私どもは先づ『自身』を愛することを学ばなければならない。誰でも自己を愛するけれども自己を愛するの道を知っている者は少ない。ましてこれを実行する者は暁天の星であろう。幼い時に、母は私よりも、よりよく私を愛するの道を知っていた。そうして本当に私自身を愛する道へと導いてくれた。

 私に私の母の指導がなかったならば私は今日生きていなかったかも知れない。あるいはどんな堕落の道にさまよっていたかも知れない。本当に『自身のように愛する』のはむづかしいことである。人は一生かかってなおこの道を歩み得ない。

 母がよりよく知っていたように、天の父が最もよく知り給う。この父に導かれ行くのが本当に自己を愛するの道であろう。父を離れた自己の中には自己を滅ぼすものがたくさん宿っている。私は自己を愛するが故に、自己を捨てよう。自己を神の祭壇の上に献げよう。これが本当に自己を愛する道である。

祈祷
天の父よ、あなたは私の幼い頃、私に母を与えて、私以上に私を愛してくださったことを感謝申し上げます。願わくは今もあなたの聖霊を母として私の心に置き、私を愛する道を私に教えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著294頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、以下は、昨日に引き続き、ロイドジョンズの『山上の説教』下巻19 黄金律 からの引用である。〈同書328頁から332頁まで〉

 何が問題なのか。その答えは神学的であり、根本的に聖書的である。すでに見たように、しばしば、ある愚かな人々は、神学はいやだ、特に使徒パウロの神学はいやだと言ってきた。彼らは単純な福音、特に山上の説教が好きである。これは実際的で神学がはいっていないからと言う。ところがこの1節は、次の見解が、どんなに言語に絶した空虚であるかを証明している。すなわち、あなたはただ人々に教えを与えて、すべきことを命じればよい、この黄金律を掲げて見せ、彼らを知的に訓練しさえすればよい、そうすれば彼らはこれを承認し、立ち上がってこれを実践するだろう、といった見解である。これに対する回答は簡単である。すなわち、この黄金律はほとんど二千年間人類の前に差し出され続けてきた。特にこの百年間、人類の進歩のために、法制化や教育といった方法を通してできるあらゆることがなされてきた。それにもかかわらず、人類はいまだにこの黄金律には従っていないのである。

 それはなぜであろうか。まさにここで神学がはいってくる。福音が私たちに告げる第一声は、人間は罪深く、堕落しているという事実である。人間は邪悪に強く拘束され支配されているゆえに、黄金律を固守できなくなっている被造物である。福音は常にそこから出発する。神学の第一原理は、人類の堕落、人類の罪である。これを次のように言うことができる。人間が律法と預言者の要約であるこの黄金律を実行できないのは、律法に対する態度のすべてが悪いからである。彼は律法を好まない。事実、憎んでいる。「肉の(生まれながらの)』思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」〈ローマ8・7〉。したがって、こういう人々の前に律法を掲げてみても無益である。彼らは律法を憎む。律法を欲しない。もちろん彼らも、ひじかけいすに寄りかかって、人生いかにあるべきかといった抽象的な文句を聞くと、ああいい言葉だと言う。だがもし律法を彼らに当てはめようとするなら、直ちにそれを憎んで反対する。それが彼らに当てはめられるやいなや、彼らはそれをきらい、不快を感じる。

 ではなぜ彼らはそういう態度をとるのであろうか。聖書によると、私たちすべては生まれつきそうなのである。なぜなら、律法をきらう以前に、律法に対して悪い態度をとる以前に、律法の授与者である神ご自身に対する私たちの態度が悪いからである。律法は神のみこころの表現である。ある意味で神ご自身の人格、性質の表現である。しかし、人間は生まれながら神を憎む者であるゆえに、神の律法をきらう。これが、新約聖書が告げている事実である。「生まれながらの思いは神に対して反抗する」。生まれながらの人、堕落の結果としての現在の人類は、神の敵であり、神とは相いれない。彼は「この世にあって・・・神もない人」〈エペソ2・12〉である。彼は神をきらい、神と神からくるいっさいを憎む。なぜそうなのか。突きつめるとその答えは、自分自身に対する彼の態度が悪いからである。それが、すべての人が本能的に、生まれながらに、この黄金律を直ちに実行しようとしない理由なのである。

 すべてのことは「自我」の一語に集約できる。主はそのことを「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言って表現している。だが、それこそ実に私たちのしないことであり、したくない一事なのである。私たちは誤った仕方で強く自己を愛するからである。私たちは、人々からしてほしいと望むことを人々にもそのとおりにしない。なぜなら、私たちの頭は一日中自分のことでいっぱいで、人のことに思いを向けようとなどしないからである。言い替えると、これこそ堕落の結果として罪の中にいる人間の状態なのである。人間は徹頭徹尾自己中心である。自分のこと以外は何も、だれのことも考えない。これは私の独断ではない。これは、キリスト者でない世界のすべての人について言える事実であり、単純で文字どおりの事実である。そして残念なことに、これは実にしばしば、キリスト者についてさえ、依然として事実なのである。私たちすべては本能的に自己中心である。自分がこう言われた、ああ思われたと言っては憤慨する。しかし、人もそうだということは、いっこうにわかりそうもない。それは、人のことは全然考えていないからである。私たちは一日中自分のことを考えている。私たちが神を好かないのは、神が私たちの自己中心性、つまりひとりよがりに干渉するからである。自分は独立自尊だと人間は考えたがる。ところがここに、それに挑戦する方がいる。だから人間は、生まれながらにその方をきらうのである。

 このように、人間が黄金律に従いこれを守って生活できないのは、その自己中心性という事実に原因がある。次にそこから、自己満足、自己防衛、自己関心が生じる。常に自己が前面に出る。人間はなんでも自分に都合のいいことを望むからである。突きつめると、これが労働争議におけるもめ事の真の原因ではないだろうか。すべてはそこに帰するのである。一方は、「もっともらう権利がある」と言う。他方は、「彼の取り分がふえれば、こちらの分が減る」と言う。こうして両者とも互いに反対し、けんかが起こる。どちらも自分のことばかり考えているからである。私は個々の争議に立ち入って論じようとは決して思わない。人々がもっともらう権利がある場合もこれまであった。けれども、罪と自己中心のゆえに、いつでも苦い敵意がはいってくる。もし私たちが、政治的、社会的、経済的、国家的、国際的、そのどの問題であっても、こうしたすべての問題に対する自分の態度を十分正直に分析してみさえすれば、すべてはそこに帰着することに気づくであろう。国家間にそれを見る。二国が同じことを欲する。そこで、互いに相手国を監視する。すべての国は、自国を全世界の平和の保護者、管理者としてのみ見ようとする。愛国心には常に自己本位の要素が伴う。「私の国」「私の権利」である。他の国もまた同じことを言う。私たちすべてはきわめて自己中心的であるゆえに、戦争が起こる。個人間の、社会の各階層間の、国家や国家群間の、争いや争論や不幸も結局はまさにここに帰着する。現代世界の諸問題の解決は、本質的に神学的解決である。どんな会議も、軍縮やその他いっさいのことに関するどんな提案も、罪が人間の心にあって個人、グループ、諸国家を支配しているかぎり、無に気するであろう。黄金律を実行できない理由は、ひとえに、人類の堕落と罪にあるのである。

 次にこれを積極面から見よう。どうしたらこの黄金律を実行できるか。問題は結局、どうしたら主イエスがここで言っているような態度、行動がとれるかである。それに対して福音は、神から出発せよと答える。最大の戒めは何か。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」である。第二もそれに似ている。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」〈マルコ12・30、31〉。この順序に注意しよう。隣人からではなく、神から出発しなくてはならない。個人間であっても、国家群間であっても、この世の諸関係は、私たちすべてが神から出発しないかぎり、正しくはならない。神を愛さないかぎり、自分を愛するように隣人を愛することはできない。何よりもまず初めに、神の見方をもって自分や隣人を見ないかぎり、どちらも正しく見ることはできない。これらを正しい順序でしなければならない。神から出発すべきである。私たちは神によって、神のために造られた。したがって、神との交わりの中にあってのみ、真に人間としての営みができるのである。続く)  

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