2022年10月26日水曜日

ダビデの子とダビデの主(上)

ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』(マルコ12・36)

 イエスはダビデが詩篇を書いた時に『聖霊によって』だと信じておられる。しかも『聖霊によって』書いたのだから、その書いたところは絶対の真理であると見ておられる。

 私たちが読んでは大した感動も受けない詩篇の第110篇もイエスの正解し給うところによれば、ダビデがメシヤである救い主が来られることを預言し、かつそれがダビデの末孫として生まれ、しかも神の位の右に坐すべきお方であることを示す証拠と見られる。

 この論法は直接にはイエスを敵としていたパリサイ人や学者らを沈黙せしむるにたる権威を持っていたと同時に、私たちにとっても大きな慰めである。

 第一に聖書の中から聖霊が私たちに語り給うとの御解釈が嬉しい。信ずる者に対して聖霊は聖書の中から神のみことばを私たちに語り給うと信じつつ聖書を読むことは実に私たちに生きた力を得させる。

祈祷
主イエス様、あなたは聖書を神のことばと信じ、信仰をもってこれを読む者に永久の真理を語る者であることをお教えくださったことを感謝申し上げます。願わくは、私たちをして価高い真珠を求める商人の如き心をもってこれを読む者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著299頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌121「まぶねのなかに」https://www.youtube.com/watch?v=SA9xnC0SB0w

以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原書409頁、邦訳792頁〉より引用

19 ダビデの子とダビデの主

 斯く巧妙に仕組まれ、斯く執拗に手を替え品を替えて迫った長い論戦もついに終わりを告げ、イエスは凱旋の意気をもって佇立せられた。『それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった』。この時に至るまで敵は攻勢を持し、イエスはその無尽蔵の英知を表し弁証に弁証を重ね守られたが、今や守勢から攻勢に一転せられた。

 すなわち著者の知れざる詩篇の110編に、エホバの援助によって勝利を得る『主』と詩篇作者が称しておる、ある不明の国王の、無限な勇姿を賛美した章句を引照せられた。これイスラエルの歴史の新しい時代、国王と祭司とを兼ねた『メルキゼデクの位に等しい』国王の君臨したときに著されたものである。これ詩篇に明らかに現れた意味であるが、ラビはこれに他の註解を施した。作者の不詳なるを喜ばず、彼らは万事を偉人の名の下に帰するを好んで、時にはその証拠があるものもあるけれども、全くその証拠に関係なしに詩篇の大部をダビデの作とした。彼らはこれをイスラエルのメシヤである王であるダビデが主を預言して著したものとしてダビデの詩と題した。

 彼らの註解を知らるるイエスはその反対者を敗らんがためにこれを引用せられたのである。パリサイ人に向かい、彼らの口調を藉りて『あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか』と問われた。研究を積んだ教師らには容易な問題と思われたので、彼らは言葉の下から答えて『ダビデの子です』と言った。イエスはたちまちこれを捕らえて『それでは、どうしてダビデは、御霊によって彼を「主」と呼び、「主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい」と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう』と論談された。

 これラビの論弁法の純の純なるものであって、あたかも斯くの如き神学問題は学者として彼らの学校で論争するを好んだものである。その敵の論法を斯くの如く採用せられたのは如何なる目的であったろうか。これただこれらの倨傲な人々を卑下せしめ、彼らの立脚地に立って彼らに応じ、彼ら自身の武器をもって彼らを打ち、群衆の面前において彼らを敗亡せしめらるるためであった。これ一挙にして有司たちと、群衆と、その弟子とに彼らの抱くメシヤの理想の誤謬を悟らしむる手段であった。)

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