2022年10月3日月曜日

デナリ銀貨(3)教会と国家

イエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 イエスは宗教に熱狂して万事を忘れた人ではなかった。世にはカイザルを認めないのが宗教家の本領だと考えるように見える宗教家もある。すべての物は神の物だから何もかも神に納めなければ宗教でないように説く人もある。

 またはこれに反して宗教を装身具の一つくらいにしか考えない人もある。すなわち紳士の対面を繕うだけの道具と心得ている人もある。イエスの当時のカイザルが如何なる人物であったかを知るならばイエスの態度は余りに妥協的に見えるかもしれない。彼らはとても問題にならぬ人間である。しかも、イエスは政治に容喙(ようかい)することを好まなかった。

 彼らに払うべき義務は黙って払うべく命じ、宗教の本領は別にあることを示し給うた。国家が理想的でなくとも、国家の命ずるところはこれを果たす。すでに存在する制度に対して反逆せず、徐(おもむろ)に人心を改造して行くのが宗教であると教えたのである。

祈祷
主イエス様、あなたは私にカイザルの物をカイザルに、神の物を神に、納むべきことを教え給いしことを感謝申し上げます。願わくは、今日も私たちの周囲にあるカイザルに、その納めるべきものを納めて、しかも一切を神に納める者とさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著276頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌5 https://www.youtube.com/watch?v=fB6i4b0TMx0 

 David Smithの『The Days of His Flesh』は上述の青木さんの霊解とは違うが、大切なことを指摘していると思うので、以下に転記する。同書〈邦訳782頁〉

10 主の脱出

 これ絶妙至極に企んだ狡猾な計略であったけれども、イエスは立ち所にその偽りを看破し『なぜ、わたしを試すのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい』と叱責された。ローマ帝国の国税はユダヤの貨幣にあらず、ローマの貨幣で納めたらしく、彼らは皇帝の彫像と次の極印のあるデナリをイエスに渡した。極印に曰く『Ti Caesar Divi Aug. F. Augustus Pontif. Maxim(万人の頭領神聖なるアウグストの子テベリア・カイザル皇帝』と。『これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか』と問われたので、彼らは『カイザルのです』と答えた。『しからばカイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』と喝破された。

 ここに彼らは『納めることは律法にかなっているか、いないか』と尋ねたのに『返せ」とイエスの答えられたのには意義がなければならない。税の貨幣は彼らのものにあらずしてカイザルのものである。彼らはこれを獲得する権利はない。ユダヤ法理学の原則によれば国王の貨幣の通用するところはすなわちその国王の主権の認識されるところなりと言うにあるではないか。イエスの御心には軽蔑の調子があった。彼らが神に負う債務は他にあって、しかも彼らの意識するよりは大いなるものがあった。

 一方、クレッツマン『聖書の黙想』は次のように語る。〈同書189頁〉より

 イエスを誠実で正直で真実にあふれた、恐れを知らぬおかたであると、ほめそやした以上は、一つの答えを期待できると考えた。

 イエスのようなお方を瞞そうなどと、彼らは一体どうして望み得たのであろうか。
 イエスは人々に二度とやり返すことの出来ないほど、劇的で率直な方法で答えている。
 彼はローマの税金が納められている貨幣を持って来させ、おそらく、それを手の中で、裏表させながらであろうが、尋ねられた。
「これはだれの肖像で、だれの記号か」。

 それがだれのものであるかは、今日どんな聖書辞典ででも調べられる。一つの面にはローマ皇帝テベリオの肖像が、記号とともに描かれ、他の一面には、別の記号が記されていた。ローマ政府へ税金を納める時に使う貨幣の、肖像と記号がだれのものであるかという問いからは、誰も逃れる術がなかった。ローマ側の立場に立つ最右翼の者でさえも、
「カイザルのものはカイザルへ返しなさい」
という命令を非難することはできなかったし、ユダヤ人の最も過激な分子でも「神のものは神に」帰する以上のことをだれかに期待できるとは言えなかったのである。この言葉が教会と国家との分離をはっきり示したものであることを、私たちは終始、心しなければならない。二つの王国はそれぞれの領土を持ち、それぞれの税金が支払われるべきものである。

 この質問者や民衆が、イエスの知恵に驚嘆したあまり、問題をそのままにしてしまったのは当然のことであった。) 

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