2022年12月28日水曜日

復活の主のからだ(真正の復活)

女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16・8)

 『だれにも何も言わなかった』とは言うまでもなく、十二弟子に会うまで誰にも語らなかったということである。弟子に告げたことは他の福音書に明記してある。マルコ伝はこの一節で突然に終わっている。

 9節以下は何人かが付記したものであろう。もちろん聖書として信ずべきものであることは言うまでもないが、マルコの筆ではない。この9節以下の代わりに左の句を持って簡単にこの書を結んでいる古い写本もある。

 『さて、女たちは、命じらたすべてのことを、ペテロとその仲間の人々にさっそく知らせた。その後、イエスご自身、彼らによって、きよく、朽ちることのない、永遠の救いのおとずれを、東の果てから、西の果てまで送り届けられた。』

 思うにマルコの書いた本の最後のページが破れて失われてしまったので、誰かが適当な付記を加えて結末としたのであろう。誰かと言ってそれは非常に古いもので古代の篤信な人の一人である。

祈祷
潔く朽ちざる永遠の福音の主イエス様、あなたは死をもって贖罪の大業を終わりなさいましたが、今なお天より私たちを助け、私たちのためにお働き下さいます。よみがえって今なお生きて私たちとともにおられます。願わくは今日も私たちを用いて御名のために福音を担って歩むことができるようにして下さい。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著362頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。  

David Smithの『The Days』の続編

18 主の肉体真に復活せり

 イエスは預言の如くに死より復活せられた。これ真正の復活であった。福音記者はこれが肉体を有せざる霊の実質無き幻影でなく、彼らとかつて共に生活し、十字架に釘付けられ、ヨセフの墓に葬られ、神の能力によって生気を回復せられたその肉体であったことを明らかにせんとして注意を罩めている。イエスが十人の使徒に、またエルサレムにおける彼らの団体に、復活の夜現われ給うや、彼らはイエスがその疵を示して形態を有せらるることを明らかにせらるるまでは、霊を見たことと考えてたのであった。而してその空虚な墓を見て彼らは信ずべき軽からざる証拠を見た。彼らに現われたのがもし単にイエスの霊であったとすればイエスの肉体はその葬った場所にあるべきはずであった。しかるにペテロやヨハネやマリヤは空虚な墓と葬衣の脱ぎ捨てられているのを見た。これ実に復活の事実を示す有力な証拠であるが、しかもなお甚しき困難がある。物質的天国と神との共動を信じた古代の神人同形説によればこれには何の困難もない。しかしもし聖パウロの『血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません』〈1コリント15・50〉との語を真理ならしめば、イエスが人間の中に住まれた間に有せられ、またこのときにここに有せられた肉体をもって現われ給うたことを覚るべきである。

19 復活せる肉体

 聖パウロは復活の肉体に関するその概念ーー彼は自己の知恵をもってこの確信に到達したるにあらず、聖霊の啓導によって悟り得た概念ーーを提供してこの困難のうちにある我らに助けを与うるのである。『ある人はこう言うでしょう。「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです』〈1コリント15・35〜38、42〜44〉と聖パウロは言っている。その生けるにも死ぬにも復活においていやしくもイエスの肉体に起こったことはまたその信者の肉体にも起こるに相違はない。墓場に葬られたものは壊つべき肉体すなわち賤しき肉体であって、復活せるは霊的肉体すなわち栄光の肉体であった〈ピリピ3・21〉。

(1) 変貌

 神の能力によって主の肉体が復活したときに起こった変貌は我らの現在の不充分の知識をもっては明らかにすることはできない。しかしその秘義の幾分は聖語によりて示され、敬虔な態度をもって研究することを得るのである。まず第一に復活の主の聖容を記す福音記者の物語を見れば、同一であったにかかわらず、なお栄光の肉体には驚くべき変化のあったことかが明らかである。イエスはかの変貌の山上においてペテロ、ヤコブ、ヨハネの仰いだと同じような聖容に弟子の目には映じたのであった。その変化は、墓の傍でマリヤの傍にイエスが立たれたにかかわらずこれを認むるを得ず、彼女が園丁なるべしと考えたほどに甚だしいものであった。もし他に多くの例証がなければマリヤの失敗は畢竟彼女が泣き腫らした目で朦朧と薄暗がりに見たためであろうと考えらるる。しかしエマオの途上においてイエスが二人の弟子の道連れとなられたとき、彼らはこれがイエスであろうとは夢にも覚らなかった。彼らはイエスを未見の人として、彼らの悲しい物語をイエスに話した。またガリラヤの湖辺で七人の弟子に現われ給うたときも、彼らはイエスは自ら示さるるまでは未見の人物であると考え、その後といえどもそれが主なるを知りつつもなお確信と疑問との間を彷徨して、半ばは『あなたはどなたですか』と尋ねたい心地でいた。いずれの場合にもイエスは、自己を示すに足るある方法をもって彼らに悟らしめ、もってイエスに相違なきを確信せしめらるる必要があった。マリヤは昔に変わらぬ柔和な調子でその名を呼ばれて始めて悟ることを得、エマオ途上の二人にはパンを祝してこれを襞いて、その証拠を示され、エルサレムにおいて十人の使徒にはその傷を示して証拠とせられ、七人の弟子にはその伝道の当初に行われた奇蹟を繰り返しその網に魚を充たしめて証拠とせられた。

(2) 普通の物的法則に従わず

 さらに主の復活の肉体は普通の物体を支配する法則には従われなかった。宛然科学者が夢見ているエーテル体の如くに『普通の物体の中を自由に通貫し、これを避け、あるいは妨げられることなき』を得る体であった。復活の当夜弟子たちが集まったエルサレムの家の門戸は、イエスが団体の真ん中に現われ給うたときには堅く閉ざされていた。門戸も壁もイエスの入り来られる妨げとならなかった。またその距離の空間もエーテル体には何の妨げとならなかった。『光線あるいは引力の速度をもって彼らは老いたるボオテスがその三頭獣を駆る所より、サギッタリアスが南にその矢を射る所へ飛ぶを得たり』と。一夜の間に復活の主はエルサレムにおいてペテロに現われ、エマオ途上にクレオパおよびその連れに現われ、さらに再びエルサレムの弟子たちに現われ給うた。

(3) 肉眼には見る能わず

 かつイエスは肉眼をもっては見ゆることを得なかった。イエスがただ弟子たちにのみ現われて、一層確信を与えるの必要あり、また敵をして依估の沙汰なりとの偏見を産ましめざるためにと敵に対して現われ給わざる所から、復活に対する信仰は昔から攻撃の的となっている。而してその反対は現代にもなお試みられるのである。外典『ヘブライ人の福音』が祭司長のしもべにイエスを現わしめ、また『ペテロの福音』が百人隊長ペトロニアス並びにその兵士やユダヤの長老たちの面前に二人の天使に護られつつ墓から現われ給うたように載せているのはおそらく叙上の反対に応ぜんとしたものであろう。しかし実際福音の記事に斯くの如き弁証的な装飾を加えるのは歴史を偽ると同時に何らの利益をも与えないのである。

 主の復活の肉体は霊的の肉体で、肉眼をもっては見るを得なかったのである。主がその弟子に現われ給うや、彼らは聖的現影〈spiritual vision〉によってこれを見る明を与えられる必要があったのであって、その奇蹟の彼らの間に行なわれるまでは彼らは主の来臨を悟らず、主は彼らの傍に在すもなお、彼らはこれを意識することができなかった。エマオの途上、二人に現われ給うや、彼らは驚駭したに相違はない。彼らは主の近づかれるを見ずまたその後ろからの足音を聞かなかった。彼らに霊的の現影は急に開かれて、見よ、主はそこに立ち給うた!マリヤの如く彼らは主がその証拠を示されるまではこれを認めることができなかったほど変化しておられ、然る後『彼らには見えなくなった』。幔幕〈veil〉は彼らの心から掲げられたが、彼らが主を認めるや否や再びこれを卸されたのであった。而して肉眼に見えるもののほかは眼を遮るものはなかった。聖霊の啓導に服従する〈the operation of the Holy Spirit〉ものにのみ霊的現影の賜物は与えられ、斯くの如き人のみ復活の主を仰ぐことができたのである。聖ペテロは使徒行伝のうちに『神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現わせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました』〈使徒10・40〜41〉と言っている。彼らの心から幔幕を取り去られたもののみが主に接することを得た。故にそのこの世を去られる日、オリーブ山に向かって市内を通過せられたときも、一人としてこれを怪しむものなく、これに害を加えるものもなかった〈ルカ24・50〉。十一人には主が見えたけれども、市内の群衆の眼には見えなかった。彼らはただ十一人の使徒を見たのみで、その中央に歩みを運ばれる不思議な主の姿を認め得なかったのである。)

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