2022年12月31日土曜日

イエス伝の終点を見、新年に備えよう

主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。(マルコ16・19〜20)

 これがイエス伝の終点である。普通の人物伝はことごとく死をもって終わっている。それが如何に巨大な人物であろうとも。しかるにイエスは昇天をもって結んでいる。

 ある人はそれは神の子として書かれてあるからだと言うかもしれないが、それだけでない。人の子であるイエスは私たちの先導者として『天にあげられた』のである。さればこれはイエスと同じく、イエスを信ずる者のゴールである。

 私たちは皆、天に上げられ神の御側に坐せしめられる。この大なる福音を携えながら世界を征服し得ないのはどこかに錯誤があるに違いない。しかも主はなお生きて『またともに働き給う』ではないか。

 立てよ。私たちはこの大福音を携えて新年を迎えようではないか。

祈祷
死してよみがえり、天に昇り給いし主よ、あなたはこの一年も私たちとともにあって、私たちと『ともに働か』れたことを感謝申し上げます。願わくは、新しい年において、私たちをして一層鮮やかにあなたが私たちとともに在すことを信じ、あなたの手によって行なわれる御『しるし』が私たちの生活の上にさらに顕著に行なわれるに至らんことを。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著365頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌142https://www.youtube.com/watch?v=RrVbNSXZ_zE 

David Smithの『受肉者耶蘇』は一番最後に昨日の記事「20 復活の主の不易の現在」の掉尾として以下の祈りを載せていた。日高善一氏の大正11年時刊行時の名訳である。残念ながら今の私たちには理解しにくい言い回しではある。参考まで英文を付記する。

汝の悲痛の大いなるがために、その栄光を棄てて我らの像〈かたち〉を取りてこの世に降り、哀しみの人にして悩みを知り、父の聖意〈みこころ〉を示して父の家に赴く道を我らのために開き給える主イエスよ、汝は昨日も今日も何時までも変わらず在し給うが故に、見るべからざる汝を仰がんと努むることを得しめ、汝と汝の復活の能力と汝の苦痛にあずかるの道とを知らしめ給え、汝の救いの福音をことごとくまた堅く信じ、ここに平和と歓喜とを得て、身に天の明らかなる印を帯びたるものとしてこの世を送るを得しめ給え、斯くして汝のために証を為し、汝の聖足〈みあし〉の蹟を忠実に踏みて、末期〈おわり〉の日に汝の栄光のうちに迎えられ、汝の恩寵溢るる聖顔〈みかお〉を仰ぐを得しめ給え、アーメン

Lord Jesus, Who in the greatness of Thy compassion didst leave Thy Glory, didst take our nature and dwell here, a man of sorrows and acquainted with grief, and didst suffer for us on the cruel Cross, that Thou mightest reveal the Father's Heart and open for us the way to the Father's House; as Thou art the same yesterday and to-day, yea and for ever, may we endure as seeing Thee Who art invisible; may we know Thee and the power of Thy Resurrection and the fellowship of Thy sufferings; believing utterly and steadfastly the Gospel of Thy salvation, may we possess the peace and gladness thereof and walk through the world like a people that carry the broad seal of Heaven upon them.  And thus witnessing for Thee and faithfully following in Thy steps, may we be received at last into Thy Glory and behold Thy blessed Face.  Amen. 

およそ百年ほど前に、スコットランド人David Smith氏の『The Days of His Flesh』という作品を京都室町の牧師であった日高善一氏はこれに邦訳名として『受肉者耶蘇』の題名を当て日本の江湖に送られた。全編これイエス・キリストの足跡を聖書に忠実に読み切り、物された労作の翻訳である。私はこの最後の著者の祈りこそ全編を貫く心だと思うし、日本人青木氏の祈りとともに一年の終わりを締めくくるに最も相応しい言葉ではないかと思っている。新しい年度はこの『受肉者耶蘇』を最初の一頁から忠実に読み切りたいと思う。)

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