2022年12月8日木曜日

大祭司の前での審問(結)

彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ。」などと言ったりし始めた。(マルコ14:64、65)

    私怨の爆発である。議会の決議としてイエスを処刑するという形式をとったけれども、彼らの真相はこれらの非紳士的行動によって暴露された。はるかにこれを見ていたペテロはどんな心地がしたであろう。私どもも彼らのこの行為に対して憤慨の念を禁じ得ない。

    しかしつくづくと自分の心を眺めて見ると同じようなものの潜在することを見出さないであろうか。自分と同輩または後輩であると思っていた人が余り立派であることを見出した時に、ナザレの大工が神の子であることを見せられた時のように、これに『つばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ』るような気持ちにならないとの保証ができる人がたくさんはあるまい。

祈祷

神様、私に隣人を尊ぶ心をお与えください。隣人の善を見て喜ぶ心より、これを尊ぶ心をお与えください。隣人の善が私が足りないことを証する機会となる時も、喜んで彼を尊ぶ者とならせてください、アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著342頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はクレッツマンの『聖書の黙想』の続きである。

    それは人間性を最悪の面において示しているからである。主人同様に腹黒く、口に毒をもつ、残忍な僕たちは、獄舎につながれた者の弱身に乗じて、このおかたの上には、どんな罪もなかったにもかかわらず、嘲ったり、打ったり、意地悪くも、手荒なことをするのだった。 これは人間の本性が沈みうる限りの堕落の海の深さを、何と見事に描いたものではないだろうか!

   一方、汚れないおかた、つまり、神の聖なるひとり子であるおかたに目を転ずれば、彼は打つ者には喜んでそのほほを向け、悪口を返したりはなさらなかったのである。これこそ、私たちの罪の全き贖いを示すものではないだろうか!)

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