2022年12月9日金曜日

主を傷つけたのは何か

ぺテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って……(マルコ14:67〜68)  

    この時のペテロの行動を臆病の見本の如くに考える人があれば、その人は人情を知らずまた己を知らない浅薄な人である。他の弟子は皆逃げてしまったのに(ヨハネは祭司を知っていたから、ついて行っても危険は無かった)ペテロ一人大祭司の中庭までもついて行ったのは一通りの勇気ではない。大胆過ぎたのが禍したのである。暗い物かげに居れば良かったのに『役人たち』の中に入り込んで火に暖まったのが悪かった。 

    火はペテロの顔をハッキリと照らした。つい先刻『剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした』彼が見出されぬはずはない。思慮は足りなかったが勇気は到底私たちの及ぶところではない。いかにもペテロらしい可愛さがある。『主のおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した』の句に貰い泣きをしない人はあるまい。

祈祷

主イエス様、私にペテロの勇気はありませんが、『主のおことばを思い出した。それに思い当たる』心をお与えください』この反省が殉教者ペテロを造り出したる如く私にも過ぎし罪に『泣く』ことを教えて、十字架の道を進み行かせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著343主を頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はクレッツマンの『聖書の黙想』の続きである。

   ここで取り上げている言葉に思いをめぐらすにあたり、私たちは今一つ、別の悲しむべき場面を避けることができない。その役割を演じる人物は私たちの、あの「勇敢な」友、ペテロである。あんな恥ずかし気もなく主を見棄ててしまってから、しばらくたって、彼は闇の中にぼんやりとその姿を現わす。「遠くから」ついて来たのである。以前の情熱と勇気を幾分か取りもどした彼が、自分自身の胸の中を本当に知ることができず、まして、はっきり目覚めて祈ることなどできないままに、大祭司の中庭の中へ、まんまと入りこんでしまったのだ。今更、何をしようというのだろう。彼はあんなに向こう見ずに約束したように、主と獄舎や死を共にする覚悟で、勇敢に主を自分の主として告白するのだろうか。いや、それどころではなかったのだ。彼は主の敵の中にまじって、自分を彼らの仲間の一人に見せようとふるまったに過ぎない。ちょうど、今日、多くの人々がそうするように。

    彼らの仲間の一人に数えてもらいたいという熱望のあまり、ペテロは求められもせぬうちに、ナザレのイエスと自分は無関係だと誇らし気に語って、彼らを一歩出し抜いたのである。門番をしていた一人の女の罵りの言葉は、彼にまず最初に主を否定させるものとして十分だった。ニワトリの最初の鳴き声も彼の心に、主の警告を呼び起こして我に返してくれるものではなかった。僕たちから執拗に罵られ、いためつけられて、彼はうろたえたあまり、神を汚す悪口雑言を吐いて、二度ならず三度までも主を否定したのである。彼が豪語したあの勇気はどこへ行ってしまったのだろう。あの信仰さえもどこかへ行ってしまったのではないか。

    常に油断なく、目を覚まして祈ることがなかったら、私たちの持つ、わずかばかりの信仰の火はなんとたやすく消えてしまうことだろう。私たちの救い主の限りのない憐れみのみがーーその夜、キリストのきびしくはあるが慈愛に満ちたまなざしの中にペテロが認めたようにーーつまずいた弟子を、悲しみにみちた、しかし、救いをもたらす悔い改めへと導くことができるのである。)

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