2023年1月16日月曜日

『受肉者耶蘇』(序)

  昨年、私は本ブログをとおして一年間、新約聖書のマルコの福音書に関する青木澄十郎さんの『一日一文マルコ伝霊解』を紹介させていただいた。

 私にとってはこの試みは冒険を要した。それは青木澄十郎さんの全文を読んだわけではなく、彼がどんなことを書くのかもわからないまま、とにかく半分は興味本位もあって見切り発車し、続けさせていただいたものだった。

 何しろマルコの福音書は福音書の中でももっとも短いもので、初めから終わりまで読み通すには一日もかからないし、むしろ時間単位で読めると言ってもいいくらいの代物である。その福音書を一年三百六十五日にわたってせっせと『霊解』を書き続けられるだけでもすごいことだと思っていた。だからその著者の心を知りたいと思っていた。

 一年終わってみて、私がその試みに挑戦したことは正解だった。それまで福音書は何となくわかったつもりでいたが、青木さんの指し示す『霊解』などの助けを借りながら、一方では福音書そのものの精読から、今まで全く気づかなかったたくさんの恵みをいただいた。それは弟子に代表される私たち人間とイエス・キリストとの大懸隔とも言うべき「深い淵」の発見であった。

 その際、私は他の方の著書も途中から参考文書として付け足しさせていただいた。その中に『受肉者耶蘇』がある。この著書は100年以上前に、イギリスで刊行された『The Days of His Flesh』(David Smith著)が原著で、日高善一さんがこの名訳『受肉者耶蘇』を日本の江湖に紹介なさったものである。

 私がこの本の存在を知ったのは、David W. Lambertの『Oswald Chambers』を通してであった。その本の43頁に、オズワルド・チェンバーズが1907年(明治39年)に初めて日本に渡航する際について、次のように書かれている箇所があった。

The diaries of the voyage to Japan make fascinating reading. Chambers gave himself to reading, and we note among the authors on his list at this time were George MacDonald, Walter Scott, and Crockett; also, more serious, Westcott's Gospel of the resurrection and David Smith's Days of His Flesh.

 この箇所を私はうかつにも「デービッド・スミスの肉にある日々」と訳して澄ましていたが、それでも何となく心の中に残っていたのだろうか。それから何年か経って、デーヴィッド・スミスの『聖パウロの生涯とその書簡』(日高善一訳)を古書で手にし、その内容のすばらしさに目が覚める思いを経験せられたことがあった。

 その後、さらに『受肉者耶蘇』下巻を古書で見つけ、読み始めたが、何しろ上巻を飛ばして途中からのもので名訳であることは何となくわかっても言い回しが文語調で、やはり私の読書力では抵抗があった。そんなおり、昨年だったか。ふっと先ほど英文でお示しした箇所を思い出して、ああこの本はオズワルド・チェンバーズの愛した大切な本だったのだ、それは決してデーヴィッド・スミスの「肉にある日々」を述べたものでなく、彼が「受肉されたイエス・キリストの日々」をくわしく書いたものだったのだと改めてその重要さに刮目させられたのだった。

 もうお気づきだと思うが、私は英文を読む際、Days of His Fleshと認識せず、days of his fleshと大文字と小文字の違いを読み落としていたのだった。

 『受肉者耶蘇』は日高さん(※)の訳で上巻から国会図書館のデジタルライブラリーで読むことができる。最近、もちろん英文で読むことができることを知った。今年は昨年末の決心通り、少しずつその『受肉者耶蘇』をできるだけ今風に表現を変えながら、明日から単発的に紹介したいと思う。

※日高さんについては、以前、デジタルライブラリーで彼の訳「フランダースの犬」を読み、その苦心の訳業を知った。なお児童書「都を立て直した人の話」もデジタルでダウンロードできるが、この本は児童書とは言え、エズラ記、ネヘミヤ記を描いていて、いかに彼が聖書と日本人の心に通じている御仁であるかがわかる良書で、一読の価値のある本である。なお、この稿を起こすにあたり、同学の方がおられることを知った。日高さんのことはその方のブログ  http://www.patrasche.net/nello/human/06.html に少し紹介されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿