2023年1月17日火曜日

『受肉者耶蘇』(1)イエスの先在

第一章 奇蹟的降誕

 『ああ、崇(たか)きかな、何故に斯くも卑しき厩に汝寝ね給える?
 流るる星の如く生まれ、馬槽(まぶね)に棄てられ給うはそも何人?
 ああ驚くべきかなイエス、人に対するその企てや!
 楽園より自ら好んで己れをこの世に棄て給う、
 ああ大いなるかな その愛。』
                   中世紀讃美歌

1 イエスの先在

 恵みに満ちている私たちの主、世の救い主、イエス・キリストの生涯には、地上に生きたどんな人とも異なる重大な一条件があります。それはその生涯が降誕の日に始まったことではないということです。聖ヨハネはその福音書の冒頭でイエスを『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。すべてのものはこの方によって造られた。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった』『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た』(ヨハネ1・1〜4、14)と言っています。

 また聖パウロも簡潔なことばではありますが、聖ヨハネと同じように動かすことができない主張をしています。彼はイエスの誕生前の存在を堅く主張しているのです。彼はイエスの死後、一世代しか経っていないし、イエス在世当時の人々がたくさん生き残っている中で、これを読む読者が決して否定できない信仰の上で確定している一問題としてこのことを主張しています。『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです』(2コリント8・9)『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです』(ピリピ2・5〜7)

2 イエス自らの主張

 ここに驚くべき不思議があります。イエスの在世の当時、飲食されるのを目の当たりに目撃し、毎日相共に親しく交わった多くの人々がこのように考え、このように主張するに至ったイエスはそもそもどのような人であろうかということです。

 もし、イエスが自らこのように宣言せられなかったなら、彼らがイエスに対してこのようなすぐれた主張をなすことは到底できなかったことでしょう。これは実に福音書記者が一致している記述であります。イエスは自らこの世に降ったことを繰り返し宣言されました。『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです』(マタイ5・17)と言い、『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです』(ルカ19・10)『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです』(マタイ20・28、マルコ10・45)(ヨハネ9・39参照)と称されました。またその宣教の危機迫ったとき不平を鳴らす弟子たちに対しては『もし人の子がもとにいた所に上るのを見たらどうなるのか』(ヨハネ6・62)と問い、その最後には『今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください』(ヨハネ17・5)と祈られたのです。

 その誕生はすなわち『降臨(Advent)』でありました。また、永遠の初めから神のふところにあった人格の『受肉(Incarnation)』であったのであります。

(David Smith『The Days of His Flesh』1~2 頁、日高善一訳1〜4頁参照)

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