2023年1月20日金曜日

内なる光を求めて

日輪の カーテン越しの 暖かさ
 陽光にまさるものはない。いかに蛍光灯の数を増やせども、その光は暗しである。しかも陽光はすべての人に満遍なく与えられている。一方、私たちの心を照らす内なる光がある。その光もそれぞれに平等に与えられている。そんな内なる一筋の光を求めてこの日も人々は集まった。今週の水曜日のことである。

 二人の方のお話をメッセージと証という形でお聞きすることができた。たまたま、今健康を得ている人と抗がん剤を投与しながら食道癌と戦っている方のお二人であった(※)。ところが、お二人の話のうちには不思議なことに旧約聖書中の「伝道者の書」という共鳴盤があり、それがお互いに響き合っているように私には思えた。それはお二人の語り部はとりもなおさず羊飼いであるイエス様であり、そのことばに、耳を傾け、「主を恐れる」ことこそ、幸いな人生であるとする価値観があったからである。

 問題はその主とはどんな方であるかを私たちが知らねば、「主を恐れる」ことは始まらないと、メッセージをされた方は語られた。すなわち、私たちの造り主であり、私たちの罪を日毎に赦してくださる主を恐れ敬うことである、と言われた。なお、ここでは語られなかった主のご存在、再臨の主については2018年12月1日の「キリスト者の希望」https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2018/12/blog-post.htmlがある。

※この方は現在入院中で、喉が切開されていてお話ができないので、その方の証(あかし)原稿を小生が代読させていただいた。

知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。(旧約聖書 伝道者の書12章11節)

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