2023年1月12日木曜日

永遠の住まいを求めて

結ばれて エプロン姿 初々し
 新婚早々の私たちは、私が主より新しくいのちをいただいた記念すべき洋館(※1)に一緒になってから一ヶ月もいなかったのではなかろうか。写真はその折り撮影したもので、昨日のは家内が、今日のは私が撮影したものであろう。その名も月谷(つきや)町(※2)の由緒ある厳華園という旅荘をあとに、その後、山川町の県営住宅、さらには鹿島町の校長官舎と、最初下宿していた高校前の山下町のSさん宅から数えると、実に「山」の下から、「谷」へ、さらに「川」へ、そして、「島」へと足利生活6年の間に四回引っ越しを重ねたことになる。 

 ところが折角与えられた校長官舎を出て、現在の春日部市へと居を移した。足利市はその町名があらわすように渡瀬川と足尾山系にはさまれた風光明媚なところで古刹もあり、春日部市よりは趣き豊かな町であった。その町をあとにして勤務先からはるかに離れた春日部市に居を求めたことは、まわりの方々から見ると極めて異(い)なることにちがいなかった。

 その事情は春日部に私が主を信ずる際にお導きをいただいた教会があったからであった。仕事を第一にするか、それとも信仰を第一にするかは、いつも問われた問題であったが、仕事に精一杯打ち込むためにも、教会生活をいい加減にしてはならないというのが私の考えで、そのための一大決心であった。

 そして春日部に移り住むにあたっては公団住宅に入居したが、申し込みは教会の知人がしてくださった。子どもが次々生まれその団地住まいが手狭になった時、やはり見るに見兼ねた、これまた教会の知人が家を探してきてくださった。今日住んでいるのはその方がお世話くださった家を母体にしている。

 ふりかえると、一事が万事、これら住まい(足利時代に教頭さんがあっせんしてくださった山下町の下宿先からはじまる住まい)は今日に至るまで、一つとして私自身から発することなく、まわりの人がお膳立てしてくださった上での賜物ばかりであることに改めて気づかされ、お世話くださったお一人お一人に感謝の思いを捧げるのみである。

 その上、1967年、裸一貫で滋賀県の田舎を出て、新天地を求めて、行く先知らずして踏み込んだ北関東の世界に、ついには冒頭のごとく、私をキリスト信仰に導いた一人の女性が、意を決して1970年私の良き伴侶として、同じ田舎から、足利市の厳華園の洋館へと嫁いできたのであった。

 大なり小なり、このことは皆さんお一人お一人が、形は違えど経験なさってきたことでなかろうか。主なる神はご自身のことは二の次にして、私たち旅人に、このようにして地上の世界を歩ませてくださるのだ。それはすべて私たちがまことの救い主に出会い、天の御国に喜んで凱旋するためだ。そのために主は誰よりも貧しい形(飼い葉おけ)でお生まれになり、その死の床は私たちの罪を贖うための十字架であったことを覚えたい。

イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
                (新約聖書 ルカの福音書9章58節)

※1 2019年3月17日ブログ https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312_17.html

※2 今をときめく自民党の幹事長の茂木氏はこの月谷町のご出身である。経歴から勘案すると私たちが厳華園で新婚生活を歩んでいたころ茂木少年は小川の前の道を自転車で足利高校へと駆けて行っただろうし、一山越えたところにあった足利商業高校に通勤でやはり自転車で通っていた私ともどこかですれ違っていたのかもしれない・・・

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