2012年5月7日月曜日

ジョン・フリスの殉教(上)

フリスは、一生涯孤独の戦いを続けたチンデルが持ち得た唯一と言ってもいい同志であり、弟子であった。彼はチンデルに先立って殉教した。その前後の事情を藤本氏の『チンデル伝』で見てみたい。16世紀の英国史は目まぐるしい。国の土台を揺るがす大きな出来事が次々起こる。そのような時代に真理に立つ人々は「キリスト教」の犠牲になって行った。それはいずれも火刑であった。以下に記す出来事(同書P.544~546より引用) はカンタベリーの大監督(大司教)トマス・クランマーの意(学識あるフリスを何とか助けようとする)を受けて行動した一人の紳士と下僕とフリスとの間にあった話である。

 フリスはその深切には感じつつも信仰を誤摩化すことは出来なかった。彼に「たとい如何なる死を受けるとしても、聖書の真の教えと信ずる信仰を枉(ま)げることは出来ない 」と決然として答えた。そこでその紳士はこれ以上言う言葉もなく、ただフリスの人格に打たれるのみであった。彼らはランベスに着いて食事を共にし、それから陸路クロイドンに向かうこととなった。フリスの平然たるに比してこの紳士は気が気ではなかった。クロイドンに着けば、もうこの青年の生命は助けることが出来ない。どうにかしてそれまでに救いたいと彼は考えたのである。彼らが歩いて行く道は両方とも昼なお暗い密林につつまれていた。そこでその紳士はフリスに懇願した。

 貴殿はどうか道の左の森林の中へ逃げて下さい。ここからしばらく行くと貴殿の故郷に着きますから、そこに当分隠れていて、機会を見て英国から去って下さい。私どもは貴殿が充分逃げられた頃を見計らって、貴殿が道の右の方に逃げたことを人に告げて、右の森を捜索致します。

と頼むように言った。ああ実にかかる実例が他のどこにあるであろうか。監守人の方から罪人として捕えられている人に逃げてくれと頼むのである。しかしフリスはそれにも応じなかった。彼は言った。

 以前ならば、もちろん私は逃げることを求めました。私が捕えられずに、自由の身の上でしたら、私はパウロの教訓にしたがって、充分自由を持ちたいと思います。私は海を越えた彼方で勉強をつづけたいと思います。その地で私はギリシャ語を学んでいました。しかし今は権力者の手で捕えられて居ります。それはただ信仰と教えのためにのみ、全能の神の許しと摂理によって監督たちの手に引き渡されたのです。その教えは良心に従って、処刑の苦痛のもとにも支持し、また守らねばなりません。もしそうしないで私が逃げるならば、私は神と神の言葉の証明から逃げることであって、それは地獄のどん底に落ちるに価することです。故に私は貴殿方ご両人の御厚意は充分に感謝しますが、何卒私を指定した場所につれて往って下さい。もしそうでないと私一人ででもその地に参ります。

 何という気高い言葉であろうか。脱獄をすすめられてそれを拒絶し、悠然として毒杯を仰いだソクラテスも、なおこのフリスの態度には遥かに及ばない。フリスに大悟徹底、死をも恐れぬ信念があるのではない。悲愴な殉教の最期に宗教的名誉心をもっているのでもない。彼にあるのはただ神の摂理とその福音に対する信従である。彼はただ黙々として、自分の態度が立派なものとも、信仰の深さを示すものとも考えずに、ただ押される力に押されるままに従っているのである。

 かくて彼はいよいよ審問されることとなった。クランマーは非常な好意を示して、表面だけでも一時説を枉げることを再三すすめた。彼はどうにかしてフリスを許したいと思ったのであるが、そうしないことには名目が立たないからである。しかしフリスは最期まで説を固守して一歩も退かなかった。そのため彼は火刑に処せられることとなった。

 1533年7月4日、いよいよ彼の最期の日が来た。真夏の太陽は今日も変わらない光を 投げている。しかし地上には、宇宙の大真理を守ったこの青年が火刑に処せられるという大背理が行なわれるのである。実にこれ、星々が運行を誤り、太陽が軌道を外した以上の、宇宙の秩序に対する大破壊である。この日彼とともにもう一人の青年が火刑に処せられた。此の青年も宗教改革の同志であって、やはり彼を売った裏切り者の手によって、監督たちにわたされたのである。この火刑の模様についてフォックスは次のごとく記している。

 フリスは火刑柱にくくりつけられた時、死に対する充分の勇気と平安をもっていた。薪は彼の下におかれた。やがて火は燃え上がって彼を包んだ。彼はキリストと真の福音のために、死の苦しみを受けることをとり乱さぬ態度で声明し、彼の血をもって完全に、確実に、証を立てた。風は火焔をあおって、彼の後ろにいた同志の方に向かった。それで彼の死は非常に長びいて、その苦痛を長く忍ばねばならなかった。しかし彼は少しも苦痛を表わさず彼自身のことよりも、同志のことを思ってそれを悦んだように見受けられた。

 かくしてこのフリスの生命は永遠に地上を去ったのである。彼の死を聴いてチンデルは如何に悲しんだことであろうか。     (明日に続く)

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。(新約聖書 ローマ13:1〜3)

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