2012年5月9日水曜日

チンデルの捕縛と殉教(1)


 英国政府が派遣したスパイに追われて、しばらくドイツの各地を流転していたチンデルは、再びアントワープに帰ってきた。何時帰ったのか、その確実なときはわからないが、前章のフリスへの手紙をアントワープで書いているので、1533年の初葉に帰ったのではないかと思われる。

 その一つの理由は、英国政府においてモーアが失脚して、クランマーが大監督になったりしたので、チンデルを捕えるためのスパイを召還したためでである。またもう一つの理由は、書物を英国に送り込むためには、英国に一番近いアントワープに居を定めていることが最も便利であったのである。

 そして第三の理由は、ドイツ皇帝チャールズ五世が宗教改革を好まず、ドイツの大半の地が宗教改革者の勢力に風靡されているので、なお反動的に弾圧を厳しくし、チンデルが各地を転々することは非常に危険であったためである。それにアントワープは、英国の商人で移住するもの多く、彼らのためには宿舎が設けられていて、その宿舎は治外法権的な保証が与えられていたのであった。ゆえにチンデルが身を潜めているには最好の場所であったのである。

 そのためチンデルは最後の二年間を、このアントワープで過ごしたのであるが、その終り頃はおもにトマス・ポインツという英国商人の家にいた。この彼がいた家は今日なお遺っていて、アントワープに来た旅人は必ずその家を訪ねるということである。

 このアントワープにおける二年間は、チンデルにとって、非常に意義深い二年間であった。前にも引用したごとく、月曜と土曜には市の内外の貧しき人、病める人、弱き人などを訪ねて福音をもって慰め励まし、また彼の貧しい財布を叩いて物質的な援助もできるだけ与えたのである。「与うるは受くるよりも幸いなり」とのことばのごとく、彼は如何に幸いであったかを思わせられる。また日曜には午前と午後と二回、ある商人の家で聖書講義をした。家庭の小さな集会ではあったが、商人たちは熱心にそれに出席しチンデルの心の底から溢れる力ある聖書の研究に、大いなる悦びと慰めを受けたのである。彼の語る言葉は、つねに基督の十字架の贖いを中心とした単純な福音であったが、商人たちはそれに非常に打たれたのであった。フォックスは前述したごとく、一週のうち月曜と土曜を、チンデルが貧民訪問に用いたことを記したのち、以下のごとく言っている。

一週の残りの日は全部、彼の書物のために費やした。その書物に彼は非常な労苦をしたのであった。日曜が来ると彼はある商人の家にあった。そこには多くの他の商人も集まっていた。チンデルは彼らに聖書のある個所を読んで聴かせた。その言葉は彼から力づよく、美しく、また優しく流れ出て、福音書記者ヨハネの言葉のようであった。そしてその彼が読む聖書の言を聴く者に、天来の慰めと悦びを与えた。昼食が終わってからも一時間、彼は同様にして過ごした。彼は少しの汚点も怨恨や悪意の瑕疵(きず)もなく、愛情と憐れみに満ちていて、如何なる人も罪や咎のために彼を非難することはできなかった。けれども彼は神の前に義とされ、聖とされるために、そんな自己に頼らず、全くキリストの血潮にのみ頼った。そして彼の信仰はその上に基礎づけられていた。

(『藤本正高著作集』P.550~552より引用。 昨日の火曜の学びの題名は「家庭集会の大切さ」であった。使徒2:46、5:42、12:12、20:8、28:30が引用聖句であった。古のアントワープ〈現ベルギー領〉で聖書を英訳するために国外に亡命せざるを得なかったチンデルが「家」で集まりを持っていたことは特筆すべきことである。文中「研究」と書いてある言葉がややひっかかるが、と言うのはベックさんも強調していたが、「研究」でなく、みことばによる生きた証の分かち合いが大切だと思うからである。けれどもそれは私が字句にこだわるからであって、チンデルの集会がまさしく初代教会の集会であったことを思う。そして藤本氏はこの記述を戦前の昭和11年に記していることに改めて刮目させられる。)

こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。(新約聖書 使徒28:30〜31)

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