2012年5月30日水曜日

いのちに至る悔い改めという「狭い門」

Der breite und der schmale Weg(Matth. 7,13.14)
人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。(新約聖書 使徒11:18)

 人生において、我々は幾たびも、閉ざされた戸の前に立ちます。そのたびに、腹を立てたり嘆いたりするのです。

 しかし、どんな扉に比べても、神の国の門ほどに広く開かれているものはこの世にないということを、知らねばなりません。

 イエス・キリストの最初の群れは、このことを知りませんでした。ペテロから「異邦人でもこの門を入ることができる」と初めて聞いた時、彼らは神への賛美をほとばしらせたのです。異邦人でも! 無神論者でも! 自分を無価値だと思う人でも! この門を入り得るのです。

 「異邦人にも!」——神の御子が我々のために十字架にかかられて以来、このことばは、神の国の門がいかに広く開かれているかを、示し続けています。

 しかし、同時に、この広い門は「狭いくぐり戸」でもあるということは、注目すべき事実です。この戸は、「悔い改め」ということばの中に立っています。主イエスは仰せになりました。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。・・・いのちに至る門は小さく、その道は狭い」と。

 狭い門とは「悔い改め」のことです。悔い改めとは、古い生活からの方向転換であり、神なき生活、神のおきてなき生活、この世の霊に従う生活、神の御霊を無視した生活、自己義認と罪の生活——それらからの方向転換です。それは大きな第一歩です。重大な決断です。そしてまことに狭い門なのです。

 あの大いなる門はすべての人に開かれています。が、そこを通って行く人には、それは狭い門であるとわかるのです。

 主よ! 我らを、そこを通り行く者としてください。 アーメン

( 『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著5月30日の項より引用。)

 昨日火曜日一週間前に64歳で召された一人の私たちの愛する奥様の葬儀が吉祥寺集会で行われた。胆嚢がんの宣告のもと三年八ヶ月の闘病生活であったが、その困難な試練を通してその方のご主人お子様がいかにして主イエス様を信じ受け容れなさったかをお聞きし、主の測り知れない恵みを味わわされた。

 「火曜日」は長年ずっと聖書の学びが行われて来た。たとえ葬儀があっても、この時間帯が当てられることはなく、午後行われたものだ。ところが今回は葬儀が学び会そのものとなった。そしてそれは国籍を天に持つ者は、ともに同じ神の家族であるという意味で姉妹とも言うべき奥様が病の中でどんなに忠実に主イエス様に従って行き、まわりのまだ主イエス様を知らない方々への福音伝達をなさったかを端無くも証しする機会となった。

 ご遺族のご挨拶の中で、ご主人は召される二日前の奥様親しい方との会話を紹介なさった。お見舞いされた方が、天国への道の話をされ、「今日は(貴女は)一段と輝いていますね、他の病室はどこも暗いのに、この部屋だけは明るいですね。(からだはやせ衰えていたが、目だけは輝いていたようだ)」と言われたところ、奥様である姉妹は「私は狭い門から入ります。」と確信に満ちた答えをされた、と言うことだった。

 その時、すぐには(信仰をもって間もない——実は召される21日前に奥様と同じ天国へ行きたいと強く思わされ洗礼を希望し、奇跡的にそれが実現したのだったが)自分には何を言っているか意味が分からなかったが、主イエス様が狭い道から入る道を用意してくださったのだと感謝の気持ちで一杯だった、と述懐された。

 ところが召されて後、つい先日のこと、奥様がドイツ・ミヘルスベルクで購入された絵(それまで長年サイドテーブルに置いてあったのに不覚にも気づかなかった)が目に入り、ああこれが「狭い門」だったのだと実感が湧き、その絵の存在さえも知らなかった奥様に対する無関心への悔い改めをなさり、それにもかかわらず、妻の病を通して自分もともにこの狭い門をくぐって天国に行けることを確信し感謝の気持ちを持ちました。今日はその記念にその絵もこのように額にして持ってきました、と高々と示された。その時、葬儀会場には一瞬微笑みがさざ波のように広がって行くのがマイクを通して伝わって来た。このような席では普通は泣き言、悲しみしか聞かれないのに会場を支配しているこの爽やかさは一体何なのだろうかと思わされた。

 様々なご事情で出席がままならなかったご遺族の関係者は4名だったが、ご主人と二人のお子様、そしてお母様や弟様ご家族に、姉妹の不治の病という代価を払わされた主イエス様は確実に家族・親族全員を「狭い門」をくぐり抜けさせ、天の御国へと招かれた。その真実な主イエス様のみわざが輝き、会場全体を喜びに包んだ証しが、これまたやんごとなき事情で出席できなかった私にも収録を通し伝わって来た。

 ちょうどタイミングよく今日手にしたブッシュ氏の引用聖書箇所はその「狭い門」という意味の一つの説き明かしであった。ご主人が会場で示されたであろう絵は、奥様がまだ病を得る前にドイツでご一緒させていただいた折りに購入したあの絵に違いない。故人の信仰を忍び冒頭にその絵を載せさせていただいた。

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