2012年5月24日木曜日

我、キリストにありて、いのちの王たらん

歴史的な精確さ

 聖書中エステル書は多分一番多くの批評家から大攻撃を受けた本であって、彼らはこの本を信用する価値のないものとしています。しかしヘロドトスの書き物やフランス人のドーラフォイ氏[註]によって発見されたクセルクセス王のシュシャンの宮殿のものを総合してみればエステル書の記事はすべて真実であることがわかります。

註 M.ドーラフォイ氏はルーブル美術館のbithan(宮殿、大宴会の間や王室の間)に設置しており、今では誰でも大理石の舗石や宴会の間の敷石にその跡を見ることが可能です

 宮殿と庭園の相互の位置関係はエステル書の記事と符合しています。アハシュエロス王(歴史上はクセルクセス王)の浮薄で気まぐれな性質と、彼の豪勢な宴会やペルシヤの廷臣の名前、黄金の椅子、金笏(きんしゃく)、印、書記官、急使などの記事がこの書にありますが、皆歴史上の事実であります。(略)

救い

 エステル記中の人物を様々な型として入念に説明する人もいますが、ここには単純な事実が顕わされているのです。すなわち民のために自分の生命をも喜んで投げ出そうとする人です。ここに私たちはエステル書のキリストを見出すことができるのです。エステルは主の写真でありますが、主はただ生命を与えようと思われただけでなく、実際に私たちのために生命を捨てて下さったのです。そのとりなしによって私たちに救いが確かなものとなったのです。

機会

 けれどもこの書には私たちにとって実際に学ぶべき教訓があり、それは神様が与えられた機会を十二分に用いることの重要性であります。それは私たちにとっても他の人にとっても生死を分ける力が働く機会となるのです。モルデカイは神様が働いておられることを確信していましたのでエステルに伝言して「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル4:14)と伝えたのです。

 私たちは自ら与えられた機会はさほど重要でないと考え、自らの影響の及ぶところは小さいものに過ぎない、大したものでないと考えるかも知れません。「もしエステルのように立派な皇后になったのなら、その時になって別に考える 」という人がいるかも知れません。しかし「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」のです。ああ、あなたよ!あなたがどんな人であろうと、どんな境遇をお持ちであろうと、あなたは「ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配する」(ローマ5:7)ために召されているのです。

 あなたはその機会を見逃さないように注意しなければなりません。神様は私たちめいめいの人生にそのようなご計画をお持ちなのです。私たちはご自身の栄光のために神様が最善に用いることができるためにそのところにおいておられるのです 。もし私たちがそこで失敗するなら、神様は他の方法を用いてご自身の計画を実現されるでしょう。けれども私たちとしては大いなる損失を招くのです。エステルのように私たちもまた神様の御用のためには生命でも何でも捨てる覚悟をしていなければなりません。

(聖書通読の個所がエステル記にさしかかったが、参考のために名著『66巻のキリスト』167頁を紐解いてみた。教えられるところ多かった。この本の邦訳は遠く大正3年1914年笹尾鉄三郎氏により翻訳されているが、何しろ表現が古風である。原著http://www.thebookwurm.com/amh_tc.htmを参考に上掲のごとく意訳を試みた。なお、文中ロマ書の文語訳は「一人のイエス・キリストにより生命に在りて王たらざらんや」である。エステルは王妃であった。我らもまたキリストにあって王なのだ。王は王として歩むべしとは原著者ホッジキンと翻訳者笹尾の証でもあった。我らもその跡を継ぐ者でありたい。)

「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(旧約聖書 エステル記4:16)

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