2012年5月10日木曜日

時がある

 戦争も末期の数年間、中国共産党は延安の洞窟内の参謀本部から占領軍に徹底抗戦をするようにキャンペーンを指示していた。彼らが1935年の長征から受け継いだものの第一は、機動性があり、固定した基地を持たないゲリラ戦術の発展であった。このことは彼らが日本軍を都市に封じ込め、自らは戦線の背後にある通常の中国の村落と緊密なつながりを確保する有効な手立てになった。彼らは黄河一帯のかなりの範囲で土地改革の均分政策を実施したが、この大部分がそのまま連合軍の勝利ののちに有効なものとなった。

 長征の第二の成果は毛沢東が疑いなき指導者、イデオロギストとして登場したことである。彼の「思想」は今や共産党が将来の野心的な政策を打ち出す時に謬りのないガイドラインだとして地歩を得た。そして第三の遺産は感動的な自己訓練にあった。それは中国共産党の異なった諸要素を一つの統一権力に、すなわち、蒋介石の国民党の指導者たちの贅沢さとは対照的な生活方式における質素倹約をはかり、その目標は妥当であるということが絶対的に確認されたことである。

 結果的に敵対関係の中で多数の中国の実業家や知識人は重慶や南西部に移動する道を選んだのに対して、国内の無秩序や腐敗を一掃しようとする熱心なもっと多くの理想主義者たちは延安に活路を求めて出かけて行った。かくして上海では将来に対して先見の明のある素晴らしい団体は北西部にあることが知られていた。

 戦争が終結し、蒋介石が南京に戻ってから、国民政府と共産党との間の不信感は敵意に発展していった。その敵意はマーシャル将軍の巧みで誠実な外交手腕でさえ和らげるのは不可能だった。蒋介石は共産党に対する極度の憎悪を持っていたので、もう一度土地改革が根付いた地域の行き過ぎを根絶する大がかりなキャンペーンを始めた。そして1947年の3月までに蒋介石は延安を占拠さえした。ほんの一瞬、国民党は勝利したように見えた。しかしその勝利はむなしいものであった。共産軍ゲリラの道徳観がそのような成功を大幅に無意味なものにしたからである。毛沢東の軍隊は一時的に(国民党に)譲ったに過ぎず、実際は春に備えていたのだ。

 アッセンブリー・ホール教会で責任を負っている人々の心には、ウオッチマン・ニーが長期にわたって宣教から離れていることによる不安は大変大きかった。すでに1946年にウイットネス・リーは上海の長老たちを問いつめていた。「皆さんがウオッチマン・ニーを拒絶する決定をしたのは御霊にあってしたことですか。そしてその結果はどうでしたか。皆さんはその決定がいのちをもたらしたと言えますか」長老たちはどの質問にも悲しそうに 「いいえ」と答えたのだった。自責の念が同労者の間に現われ、1947年の4月には、彼らのうちの一人によって(ニーを)もとに戻そうとする願いが真剣に表明される。

「ニー兄弟のケースは私たちにとって許され得ない心の傷であります。どれだけ、その結果が事実とちがうものであったかはちょっとやそっとで言い表せません。(words cannot tell how far the consequences go.)彼が敵と協力したという非難は全く根も葉もないことだし、言われているそのほかの大部分も純然たる事実に基づいていません。これは悪魔のしわざであって、当時の私たちの霊的至らなさを示しております。けれども私たちは今、このことを通して試練を学んだのかもしれないと希望を持っています。彼が私たちの中に戻ってくることに対する反対は次第になくなりつつあります。彼には備えがあり、彼に戻ってきて欲しいという願いが大きくなっています。上海の兄弟たちは繰り返し、彼の家を訪れ、そのような交わりを通して互いの心はしっかり結びつけられ、わだかまりはなくなっています。だから私たちはふさわしい時を待っているのです。」

 ウオッチマンも待つことに満足していた。「時は」と彼は一人の友に語った「神様の召し使いです。」彼の要望で、二人のキリスト者の実業家が製薬会社の残っている彼の責任を減らすために見つけられた。4月には自由になって再び福州へ向かった。出発する前にいつでも上海の教会に戻ってくる用意があることを表明した。福建では他のところと同じように宣教師たちが持ち場にたくさん戻り、たくさんの信徒を集めていた。しかし外国人宣教師の数は以前よりずっと少なくなった。そのため宣教団は市の東のKuliang(鼓嶺山?)の避暑地に過剰な遊休施設を抱えていた。これらのうち二つが売りに出されていた。外洋に面し、台風から守るために外壁を持つ平屋の石造りの小別荘であった。これらをウオッチマンは男女の働き人を長期にわたって訓練するセンターとして使うために購入した。


(『Against the tide』by Angus Kinnear 15 Return P.181~183)

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(旧約聖書 伝道3:1)

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