2022年11月13日日曜日

いちじくの木のたとえ

鴨の群れ 時に従い 飛来せり※ 
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。・・・そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(マルコ13・29〜30)

 『人の子が戸口まで近づいている』は『その時が戸口まで近づいている』と訳すべきであるかも知れない。いづれにしてもこれは主としてエルサレムの滅亡に関してその『時代』の人々に忠告し、来るべき患難から免れしめんとのご親切によるものである。
 ゆえに、『この時代は過ぎ去りません。』と言っておられる。しかしながら世の終末においても、何らかの兆候がいちじくの花の如くに生じてくることもふくまれている。無関心で世のことにのみ心を囚われている人にはわからないが、信仰をもって霊界に生きている人にはその前兆が示されるのである。

祈祷
人の子なる主よ、あなたが私の戸口に立たれる時、私は歓喜をもってあなたを迎えられるでしょうか。エルサレムのような終末をもってあなたが私の戸口にお立ちになる時、私たちは果たして歓呼できるでしょうか。患難と苦痛とをもってあなたが私たちに近づかれる時、喜んであなたを迎えることができる用意をさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著317頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌233https://www.youtube.com/watch?v=m8lBq-RDM5E

 以下は、昨日のクレッツマンの文章の続きの部分であるが、これは「人の子の訪れ」の各論的な論考である。以下三回に分けて転載する〈『聖書の黙想』207頁より〉

 ここで、主は、エルサレムに近づきつつある裁きの一つのしるしとして「荒らす憎むべきもの」について語られた。この点に関しては預言者ダニエルも語っているが、その時が訪れると聖なる宮は異教徒の手に落ち、犠牲を捧げることも終わりとなる。このことが起こったら、もはや、世の終わりが避け難いことを悟らねばならない。その時は、どんなことがあっても逃げ遅れたりしてはならない。所持品を取り出すひまとてないのだ。
 主は神のやさしさをもって、身重の女と乳飲み子をもつ母の、あわれな苦境に思いを寄せられた。これらの日々の悲しみと苦難は、世界の歴史上、他に比べるものもない程のもので、もし主がお選びになった子らのために、この日を縮めてくださらないとしたら耐え難いものだからである。
 ところで、にせのキリストや預言者たちが偽りの奇跡やしるしを行なって、選民をだまそうとしても、できるだけ、まどわされないように心しなければならない。時間を超越したお方の持つ預言的な洞察によって、主はここで、裁きが世界中にあまねくゆきわたる時、何が起こるかを預言された。主がこの時、語っておられる兆候は、以前に語ったある前兆ではなく、万物の終わりに関するものであった。
※古利根川にいつ鴨が来るのか心待ちにしていたら、ここ一週間の間に突如としてあらわれた。)

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