2022年11月2日水曜日

レプタ二枚(結)

この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12・44) 

 これ実に神に対する私たちの態度の好模範である。神に対する私たちはいつもこの心でなければならない。一切は神から与えられ、神によって守られ、生命すら神の御手によって保護されている。

 されば、朝起きたら、すぐに先ず一切を神に献げる。先ず自分の生命から、労力から時間から、今日一日の用事から、休息から、慰安に至るまで一切を神の献金箱に投げ入れるのである。今日の成功も今日の失敗も、一切を再び神の新たなる恩賜としてこれを受け取るのである。

 逆境よし、順境もまた可なり、私の敵も私の味方も、如何なる事件の突発もすでに献げた今日の出来事として神の御手から受け取るのである。もちろん時々刻々に感謝と祈祷との手を差し出して。

祈祷
天の父よ、願わくは、私どもにこのやもめの心を与えて下さい。彼女のようにすべてのものを献金箱に投げ入れる心を与えて下さい。而してあなたの御手よりすべてのものとすべての人とすべてのことを受け取らせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著306頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌328https://www.youtube.com/watch?v=Wep8fvahzwc 

David Smithの『The Days of His Flesh』〈原著394頁、邦訳763頁〉より

 イエスはこの日何事をしようとも思し召されず神殿に赴かれた。神苑は群衆に埋められたが、敏活な眼光をもってこの殷賑の状を眺められるるのであった。かかる間に何人にも目に留まらなかった事件が深くイエスの同情せらるるところとなった。イエスはその好んで腰を下された賽銭箱の傍にいて、喇叭の口に献金を投げ入るる礼拝者を見守っておられた。しかるに一人のやもめが些細な献金を手に持って現れた〈マルコ12・41〜44〉ーーすなわち二レプタを彼女は持って来たのであって、二レプタは半クワドランで、デナリの十六分の一アサリンの、そのまた四分の一である。これ誠に些細の額であって、ことに富裕な礼拝者が賽銭箱に投げ入れる献金と比較すれば一層僅かに見える献金であった。

 しかしイエスの聖眼にはそれが最も多額の献金と見えた。このやもめの身の上をイエスは知っておられたことは明らかである。艱難を有するものは皆イエスによって救わるるのであって、この婦人もまたイエスがすでにエルサレムに滞在せらるる間に恩寵に浴したものでこの献金はその感謝のためであったろう。世間の値踏みから言わば誠に憐れな献物である。しかし彼女にとっては容易ならざる額であって、彼女はその所有〈もちもの〉をことごとく投げ込んだのであった。イエスは『まことに、あなたがたに告げます』と恐らく嘲り顔に見える弟子を正面に見つめて『この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたのです。』と仰せられた。

ハーレイ『聖書ハンドブック』〈424頁〉より

 やもめの献金はルカ21・1〜4にもある。学者、パリサイ人へのはげしい非難の直後であった。はげしい論争に暮れた多忙な1日の、宮におけるイエスの最後の行動であⅢ。イエスは、自分の生活費全部を献げた愛すべき老いたやもめに絶賛の辞を与えるのを惜しまなかった。これを最後としてイエスは宮を去った。)

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