2022年11月30日水曜日

ゲッセマネの祈り(4)

   満面に 祝福あり バラの花(※)   
「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』(マルコ14・37〜38)

 主と共に目を覚まし祈ることが出来たならばペテロ及び他の弟子はあんな見苦しい逃走はしなかったであろう。一二時間前に『ごいっしょに死ななければならないとしても』と言ったのではなかったか。しかしこれがペテロであり、弱い人間である。
 如何に自ら恃んでも『肉体は弱く』して力の及ばないことがたくさんある。さればイエスはペテロを咎めなかった。むしろ『心は燃えて』いることを認めて、諒とし給うた。イエスはこのような時にさえも御自分の立場からでなく、ペテロの立場に入って御覧になった。
 私どもの人に対する不平や悪しき感情の多くは、その人の立場に立って見ることが出来ないで、自分の立場からのみその人を見、あるいはその人の態度や行為を、自分に対する角度からのみ考えるからである。

祈祷
主イエス様、あなたは必死の時にも弱い傍人に同情する余裕を保っておられます。願わくは私にもあなたがペテロになされたように、常に自己の立場よりしないで、隣人の立場からその人を見ることができるようにさせてください、アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著334頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 326 https://www.youtube.com/watch?v=G5thRCkXCyo
以下は、昨日に続く、クレッツマンの『黙想』の各論である。

 他の弟子たちを園の入口近くに待たせておいて、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネとを、御自身の苦難の証人としてばかりでなく、共に目を覚まして祈るようにと、ともなって行かれた。世の罪のおいめはーーそのためにイエスは今まさに、偉大な苦難を始められようとしていたのであるがーー重く、苛酷なものだったので、弟子たちのもたらすわずかばかりの人間的な同情や祈りの助けでさえも、深く身にしみるものとして受けとられたのだ。イエスの心は、「悲しみのあまり死ぬほど」だったからである。私たちが垣間見ることを許されているこの悲しみと苦痛の深さは、私たち人間の理解力をはるかに越えている。

※ 昨日は闘病中のSご夫妻をおたずねし、親しいお交わりをいただいた。玄関先にこの花があった。導かれるままに「死」を恐れる私たちは1コリント15・55〜56、ミカ7・8を互いにあじわい、限りあるいのちの中で今主イエス様の愛を身に受けて生かされている平安を思うことができた。それもこれもすでにイエス様のゲッセマネの祈りに組み込まれていることを思う。今日は今日で家内の診察をしてくださったお医者さんが「寿命」の範囲内で治療しましょうと言われた。「余命」と言おうが、「寿命」と言おうが、主ご自身は私たちのいのちを救うために「贖い」となってくださったのだから、すべて主の命〈めい〉のまま歩みたいと思った。)

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