2022年11月6日日曜日

迫害におけるあかし(上)

『だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。』(マルコ13・9〜10 )

 この預言は先ず十二使徒の生涯において成就し、その後多くの信仰の勇者によって成就され、今は文字通り『福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられ』た。これを語り給うた当時にあっては全世界にわずか十二人しか福音を信ずる者のなかったことを思うと、イエスの予言の大胆さと、而して今日の成就の正確さに驚かざるを得ない。と同時に未だ成就されない他のみことばをも信ぜざるを得ない。エルサレム滅亡に関する部分も全く成就した。世の終末に関する部分も遠からずして成就するであろうと思われる。使徒らと同じ心をもって、彼らの事業を継続しつつ『主の時にまで及ぶ』のが私たちの任務である。

祈祷
主イエス様、あなたの選ばれたお弟子たちはあなたの道を歩んで忠実に福音の『証』を為しました。私どもは誠に不忠実であるために折角万国に伝えられた福音さえ停頓しております。どうか私どもに昔ながらの信仰と勇気とを与え、先人の跡を追わせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著309頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌322https://www.youtube.com/watch?v=BP5Huyyo-Xo 

※マルコ13章とほぼ同内容の記事がマタイ24章に記されているが、そのマタイ24章についてハーレイの聖書ハンドブックの記事〈同書396頁〉は参考になるので以下に記す。

題して「エルサレムの陥落、再臨、世の終わり」である。

 これは、宮を去られた後に、最後の説教として語られたもので、内容はエルサレムの陥落、再臨、世の終わりに関することである。ある言葉はその一つに言及し、他の言葉は他の主題に関連がある。ある箇所は非常に混同しているので、どの出来事に関するものか、見分けが困難である。イエスがそれらを混同されたのはおそらく故意にであろう。さもなければ、広範囲の講話からの抄録かもしれない。時間的に区分された二つの異なった出来事がイエスの心にあったのは明らかである。

 それは「これらのこと」〈マタイ24・34〉、「その日」〈マタイ24・36〉が示す事柄である。ある人は「この時代」〈マタイ24・34〉が民を意味し、ユダヤ民族は主が来臨なさるまで滅亡しないと言う。しかし、一般には、聖都が当時の人々の生存中に陥落することを語られたのだ、という見解をとる。一つの山の後ろに他の山があると、実際には遠く離れている二つの山頂が接近して見えるものである。このようにイエスの展望の中で二つの事件が重なっていると、一つが他を予表し、実際には長期間の隔たりがあるのに同時的なことのように扱われる。ある文章は一時代に関することであろう。また、ある場合には、次に起こる事柄の「成就が始まった」ということであろう。

 エルサレムに関するイエスの預言は四十年もたたないうちに文字どおり実現した。遠くからは「雪におおわれた山のように見えた」という大理石と黄金の建築物は、七十年にローマの大軍によって完全に破壊された。ヨセフスは、エルサレムの破壊の跡がかつてだれも住んだことがない場所のように見えた、と言う。)

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