2022年11月27日日曜日

ゲッセマネの祈り(1)

ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスが深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14・32〜34)

 イザヤの預言によればメシヤは『悲しみの人』(53章3節)である。イエスはメシヤとして立たれた時から人の罪を身に負うて苦しみ給うたのである。が、この時には実に全世界の罪の苦しみがイエスの霊魂に押し迫って来たのであろう。

 弟子らの見た目にも、未だかつて見たことのない『恐れ』と『もだえ』がイエスの御容貌に窺われた。あれほどに強い御方が『死ぬほど』だと仰せられるほどの御苦痛であった。ルカ伝にあるように(22章43節)『御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた』ことがなかったならば、十字架に上るを待たずしてこの時に心臓が破裂してしまったのであろうと拝察される。

 罪に慣れている私たち罪人には、罪の圧力がわからない。罪なき御方が罪を負うて下さる時に罪の恐るべき力が、火と硫黄の地獄のようにその真相を現わすのであろう。イエスはゲッセマネの園から既に陰府に降り始めたのである。ゲッセマネとは『油を搾る』との意味で、オリーブ油を搾取する場所がここにあったのである。イエスが血と脂汗とをここで絞り給うたのも奇縁である。

祈祷
主イエス様、あなたは私のためにすべての罪を担い、その刑罰の一切を受け給いましたことを思い、『感謝する』という語では甚だ不足していることを感じます。ただありがたく御礼を申し上げます。どうかこの御恵みの深さを悟らせ、覚えさせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著331頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 122https://www.youtube.com/watch?v=TuBUtl2JJXg 

さて、David Smithの『The Days of His Flesh』は第46章 ゲッセマネの就縛 と言う題名で、およそ20頁にわたりその詳細を聖書に沿って記述していると前回〈11/24[「ゲッセマネへの道〉で書いたが、今日の個所はその続きの箇所である。(邦訳880頁、原書456頁)

7 主の教訓

 時はすでに更けたので、弟子たちはしきりにその外衣にくるまって眠りたく思ったことであろう。しかしイエスは全く異なった心を抱いておられた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい』と宣いつつ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴って、別の所へ赴かれた。あたかも他の弟子の聴き得られざる所まで来られるや否や、三人に打ち明けられたが。彼らは寸刻の前までは、平和に勝利を握っておられた彼らの主が、憂悶の怒濤に襲われ給う他ことを感得した。斯くイエスを苦しめたものは果たして何であろうか。死の恐怖にあらざるはもちろんである。これすでに制服せられた所である。かつ楼上の客室において歓喜をもって向かわれた光景が、たちまち覆って、恐怖をもってイエスの聖眼が眩まれたとは思うを得ないのである。贖い主の霊魂を揺るがしたものはさらに凶暴なある事実であった。すなわち贖罪の苦悶がすでに始まったのであった。すでに十字架上のイエスを包んだ黒雲が覆い始めたのであった。『十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました』〈1ペテロ2・24〉この究極の危機に当たって、永遠の神の子が如何なる経験を有せられたかは我らの悟り難き所である。悟り難き所には唇を噤んで沈黙を守るの外はない。

Deep waters have come in, O Lord!
All darkly onThy Human Soul:
And clouds of supernatural gloom
Around Thee are allowed to roll

ああ主よ、暗澹たる数々の艱苦は
人なる汝の霊に漲り来たり
世に見るべくもなき憂悶の雲は
汝の四囲に叢り起きるに任されぬ。

And Thou hast shuddered at each act
And shrunk with an astonished fear,
As if Thou couldst not hear to see
The loathsomeness of sin so near

身近く寄する罪悪の醜状、
見るに堪えざる如く
駭然恐怖に戦き
度経る毎に汝は身震い給いぬ。

 このゲッセマネの園中において、その暴虐のつむじの第一陣は、イエスの霊魂に殺到した。聖マタイは『悲しみもだえ始められた』と言い、聖マルコは『深く恐れもだえ始められた』と言っている。

※詩文は英文を併記したが、冒頭の詩文など詩篇69篇を想起させる。それはさておき、日高善一氏が如何に苦心してその和訳を敢行しておられるか深く味わいたい。)

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