2024年7月22日月曜日

写真が伝えるもの(下)


 今日の写真は、古利根川右岸の土手の写真です(川は画面左側から右方向に流れていますので、左側が右岸になります)。昨日の椋鳥数羽を写した写真の場所は、対岸にあたる左岸の一角で、こちらからはこんもりとした樹木の連なるところとしか見えないところです。

 私たちの散歩コースはいつもこの土手から始まります。川の奥手(上流になりますが)の東武野田線が走っている鉄橋の先にある「人道橋」を渡り、左岸に出て、そこからその土手に沿って下り、「ゆりの木橋」を渡って再び、この右岸の土手まで帰って来るという、丸々一周コースです。全長ほぼ2キロになります。

 一昨日までこの土手は、私たちの背丈にまで達するかの勢いで、土手の両側にはススキを始めとするヨシの原やらその他の様々な雑草が生い茂り、川面が見えないほどでした。それが、丸一日のちに綺麗に刈り取られていました。小鳥はどこかへ飛び去り、なぜかトンボが多数飛び交っているのが印象的でした。川内では、時折背鰭を見せて魚が泳いでいたり、カイツブリがあの小さなからだで潜っては顔をあらぬ方向に出したり、亀がいつもお決まりのところで家族でいたりするのが眺められる、私たちにとっては興趣尽きないいつもながらの川縁です。

 こんな暑い時期に草刈りは大変だろうなあと思っていましたら、数メートル先に大きな機械を使って、雑草を次々薙ぎ倒していく、ブルドーザーを一人の作業員の方が運転しておられるところに出くわしました(もちろん、別のところではたくさんの方々が下草取りを行なっておられました)。騒音と刈り取られた草の乾いた匂い、太陽の陽光、乱れ飛ぶトンボ、夏のこの時期、「新陳代謝」ゆえの光景なのでしょうか。一晩寝て朝目覚めてみたら、それまでの様相がたちまち変わっていたということがありますが、公園の整備もこうして、季節季節に手を加えながら、自然環境は守られていることを実感する今朝の散策でした。

 そのことに呼応させるのは面映いですが、昨日疑問を呈しましたニューヨークタイムズの写真の件は今朝の「森本毅郎スタンバイ」を聞いていて解決しました。同放送はのっけから、早朝にバイデン大統領が大統領選から撤退する旨、SNSに投稿したことを報じました。ズームアップではこの問題を取り上げ、時事通信の山田氏とともにその意味を掘り下げていましたが、その時、私は初めて、ニューヨークタイムズのアメリカ政治に対する立ち位置が民主党寄りだということを知りました。

 確かにニューヨークタイムズ紙がバイデン氏に大統領選から撤退するようにと書いたことは知っていましたが、ニューヨークタイムズ紙がどちらかと言えば民主党寄りの新聞だとは知りませんでした。だとすれば、トランプ氏の負傷の現場写真に「星条旗」が写っていないのは頷ける、と思ったからです。

 いい意味でも悪い意味でもアメリカ民主主義の今後の動向には私だけでなく、誰しも注意せざるを得ないでしょう。たかが一枚の写真と思わず、真実を伝える写真の送り手、受け手でありたいと思います。

真実な証人はまやかしを言わない。偽りの証人はまやかしを吹聴する。(旧約聖書 箴言14章5節)

2024年7月21日日曜日

写真が伝えるもの(上)

草刈りの 跡地椋鳥 天下取り
 先日、家の垣根から、一羽の小雀が自らの図体にも相当するような獲物を口に咥えて、道路上に飛び降りてくるのを目の前で見ました。思わず、「そんな小さなからだで、お前さんよくやるね」と言いながら、道路上で獲物を転がしているものを、さらによく見てみたら、何と黒々とした「ブルーベリーの実」でした。感心するあまり、写真に撮るのを忘れてしまいましたが、言うなれば、小雀は「ブルーベリー命」の家内にとって天敵の存在だったんだとハッと思い当たり、撮らなくって正解だったと思いました。そのあと現場に来た家内にその旨話すと、「いよいよ防備をキチンとしなければ」と新たな対策を講ずるようでした。

 この暑い最中、小鳥たちはせっせと餌(木の実、草花、虫など)を求めては、地面をかけずり回っています。その中心に椋鳥(むくどり)がいます。特に散歩中に、しょっちゅう角突き合わせるのが、緑陰で遭遇する椋鳥です。もちろん、鳩も雀や燕もいますが、目立つのは圧倒的に椋鳥のような気がします。動きの速い椋鳥は中々被写体として撮るのは難しいです。

 なぜなら緑陰は彼らの生活圏そのものです。その緑陰を、私たち人間は、涼を求めて、歩いているのですね。彼らの生活圏の中に闖入するのが、決まって、私たちの立場です。だから、小鳥たちは、私たちの足音が聞こえるや、蜘蛛の子を散らすように、それぞれ梢へと飛び立っていきます。でも椋鳥も先ほどの小雀と同様に可愛らしく、いつも声をかけながら歩くようにしています。

 たまたま、草刈りの跡地に椋鳥がたくさん集まっているところに差し掛かり、上掲の写真となりましたが、あっと言う間に、数羽が逃げ去って行き、結果的には数羽しか収められませんでした。余り、いい写真ではありませんが、画面の上隅の自転車は作業をされている方々の自転車です。

 写真と言えば、今日、故あって図書館でJAPAN TIMESを見ていましたら、トランプ大統領候補の受難のシーンの写真ですが、私の見方が間違っているのかもしれませんが、どの写真にも星条旗は載っていませんでした。東京新聞はじめ多分日本のメディアは、血を流しながら立ち上がっているトランプ大統領候補の姿のバックには星条旗が写っており、極めてインパクトの強い写真となっていましたが、どうもNEW YORK TIMES経由のJAPAN TIMESの写真には負傷しているトランプ氏の様がそのまま伝わってくる写真でした(さぞ大変だったろうな、こういうことは許されてはならないと、「内省」を求めるかのように私には伝わってきました)。

 もし、これが事実なら、NEW YORK TIMESが今回の事態を冷静に受け止めようとしている精神の現れかもしれませんね。この感想は単なる私の見間違い・記憶違いによる臆断であるかも知れません。もし、読者の方でその辺に精通しておられる方がおられるなら、コメント欄にご意見をお書きくださいますと幸いです。

なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。(旧約聖書 箴言6章6〜8節)

2024年7月19日金曜日

公器である新聞の恩恵に浴す

梅雨明けに 緑陰浴 散歩どち
 今朝の東京新聞は随分読み応えがありました。最初、目についたのは「発言 若者の声」でした。「石丸氏の評価転換『?』」「私の中の『短歌記念日』」「セミを見習い全力投球」の各投稿記事でした。いずれもこのブログでも話題にしていた事柄でした。

 特に「セミを見習い全力投球」と15歳の中学生の方の書かれた投稿の奥行きのある考察に舌を巻きました。求愛行動であるセミの鳴き声に自分を重ね、「一生を常にフルスロットルで活動するセミに、生物としてのリスペクトを覚えた。これからはセミを見習い、夏休みは受験勉強を頑張ろう」と結ばれていたからです。石丸氏については大学生の方が意見を述べられていました。若者の声をそれぞれ読むことができ、随分と心が満たされて、次の頁を何となく、フッとめくってみたら、「あけくれ」迫田妙子という文字が目に飛び込んできました。このブログのフォロアーにもなっていてくださる方のお名前です。

 題名は「姉妹旅」でした。あらかじめ、私は、彼女のホームページで姉妹で旅されたことを知っていましたので、そのことはびっくりしませんでしたが、そのくわしい内容が記されていました。3歳違いのお姉さんにインタビューという形で話を聞かれたことや、水族館でしょうか、クラゲやマンボウ、ペンギンを観察された話の内容など、小さな失敗もあったが充実した時を過ごされたことが記されていました。

 新聞という社会の公器に、知っている方の記事が少しでも載ると、それだけで、新聞が身近になりますね。今、最大の関心事であるアメリカ大統領選の行く末についても丁寧な報道記事が、「こちら特報記事」をふくめ満載されていましたが、そのような難しい記事も、このことをきっかけに親しみをもって読むようになれるから不思議です。おまけに、当方にとって最大の関心事である認知症と補聴器についての記事もすかさず書かれており、ありがたかったです。この新聞も9月からは東京23区以外は夕刊配達が、人件費などのためでしょう、されず、朝刊一本になるということです。寂しい限りですが、昨今の物価高は新聞社の経営環境にも影響を与えているんですね。

 私は毎朝、朝食の時、「日々の光」という聖書のことばを読み、その都度元気を与えられていますが(ある時は悔い改めさせられますが)、そのあと必ずTBSのラジオ番組森本毅郎スタンバイをラジコで聞くことにしています。東京新聞はここ10数年愛読していますが、それ以前は、毎日、朝日、日経と購読誌を変えてきた経緯があります。それだけに他の新聞がどのようなことを主張しているのかも知りたいのでこの番組を頼りにしています。この放送ではサンケイも読売の報道も聞くことができ、大変感謝しています。

 日々目まぐるしく移り変わる世相をキャッチしながら、こうして生かされている恵みの真実さを改めて、噛み締めております。今朝の「日々の光」には全部で九つの聖句が記されていましたが、そのうちの最後の聖句に目が留まりました。

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、・・・栄光が、・・・ありますように。(新約聖書 エペソの手紙3章20〜21節)

パウロは、同じことをピリピの人たちに向かって次のように言っていることも思い出しました。新聞社の方々の社会の公器として役立ちたいとされる志が祝福されるように祈ります。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ人への手紙2章13〜14節)

2024年7月18日木曜日

「折り返し点」を通過する選挙年


 このところ、古利根川では、鷺(さぎ)によく遭遇します。今日は写真のとおり「青」鷺でした。鉄橋下の川中にいました。彼らは魚が目当てなのでしょう。この一歩手前のシーンでは魚を啄む姿を目撃しました。けれども中々敏感で、そう簡単にはその姿を撮らせてくれません。この写真は、辛うじて撮れた写真で、10メートル先にいる私の存在に気づき、今にも飛びたとうとする瞬間です。

 ところで、トランプ大統領候補を狙撃しようとした犯人は120メートルほど離れていた高所から狙ったということです。私と青鷺の距離の10倍近い距離での狙い撃ちだと知り、改めて大変な犯罪だと思いました。幸い、右耳の負傷で済んだようですが。まったく一瞬の出来事で、しかもトランプ氏が右の方を振り返ったその時、弾が当たったということで、その動作がなければ命はなかっただろうとも言われています。

 今日はたまたま聖書通読の個所はサムエル記第二の一章でした。イスラエルの王サウルが、息子ヨナタンとともに、敵の攻撃にさらされて深傷を負い、自害するのが同じサムエル記第一の終章ですから、まさに第一、第二と二巻になるサムエル記の「折り返し点」とも称すべきところです。果たせるかな、この惨劇に乗じ、一人の男は、サウルの首級を携えて、これぞ我が手柄とばかりに、偽って、サウルの仇敵と思っていたダビデのところに持ち込みます。その時、ダビデは確かにサウルに憎まれて追われる身ではありましたが、決してサウルに自ら手を下そうとは考えなかった人でした。

 その真骨頂がうかがえるのが、このサムエル記第二の第一章です。ダビデは、その男を即座に罰し、逆にサウルのための哀歌をつくります。そして次のように歌います。

「イスラエルの誉れは、おまえの高き所で殺された。ああ、勇士たちは倒れた。・・・サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、わしよりも速く、雄獅子よりも強かった。イスラエルの娘らよ。サウルのために泣け。サウルは紅の薄絹をおまえにまとわせ、おまえたちの装いに金の飾りをつけてくれた。・・・ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた。」(旧約聖書 サムエル記第二1章19〜27節)

 まことに感動的な哀歌です。実際には息子ヨナタンとの友情をダビデが心から感謝する文句もあるのですが、引用は父サウル王に対するダビデの思いにとどめました。

 1000有余年のちダビデの子であるイエス様は次のように言われました。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(新約聖書 マタイの福音書5章43〜44節)

 サムエル記第二の最初の章に登場するダビデはまさにこのイエスの教えを実践できた人です。しかし、好事魔多し、このダビデがのちにサウルの跡を継ぐ王となりますが、その絶頂期に「姦淫」の罪、「殺人」の罪を犯すのですね。でもダビデは悔い改めの心を主からいただきます。旧約聖書に登場する人々の神の前の正直な歩みをとおして、今日も多くのことを教えられました。

 アメリカ大統領選はじめ目白押しに並んでいる各国の政治が、今「折り返し点」と言われる今日この頃、主に喜ばれる政治の展開となるように祈る者です。

2024年7月17日水曜日

季節は巡り、時は動く(下)

 今日の写真は「切り取り写真」です。昨日、梅雨空のもと再び古利根川に向かいました。何と、画面のように白鷺が例の田んぼ(カルガモ親子の居住地?)にいました。すっかり、苗は成長し、今やカルガモ12羽が棲みつくには不便でしょうし、彼らにはチャンとした大海原である古利根川があります。全員、そちらに移動したものと思われます。

 その代わりなのでしょうか、時折白鷺がこの田んぼ内を歩いているのを見かけておりました。昨日は、かなり近くに行くまで逃げませんでしたが、私のiPhoneを構えての接近は、彼には鬼門なのでしょうか。たちまち飛んで逃げてしまいます。その飛び立つ様がたまたま写真のように撮れました。実際の写真は白鷺が画面の二十分の一程度を占める小さな存在なのですが、画面のようにやや変形サイズですが「切り取り」をし見ていただくことにしました。

 改めて白鷺の姿態の美しさには目を見張らさせられます。それにしてもこの田んぼは余程、鳥たちにとっては餌を採取するのに豊かな土地なのでしょうね。私が執拗にiPhoneで追いかけるものですから、飛び立ち、いったん姿を消しますが、私の姿が見えなくなった頃また戻って伸び切った苗の茂みの中で過ごしているようです。

 さて、話は変わりますが、東京都知事選挙は大変な結果に終わりました。よもやと思われた石丸氏が蓮舫氏を抜いて二位次点になったからです。その選挙報道をした東京新聞の記者の座談会記録には「石丸氏、今後の『選択肢』に疑問」とありましたし、同日の「核心」欄には「『切り取り動画』に危うさも」と巧みなネット戦略で成功した石丸氏の出現を危ぶむ声も載っていました(東京新聞7月9日(火)朝刊号)。

 「切り取り」は私の今日の写真でも用いた手法です。だから「切り取り」そのものを否定しませんが、自己にとって都合のいいところだけ、切り取って、不都合なところは見せないとすれば「公平無私」にもとります。

 私の覚えた危惧はラジオ放送ですがTBSの荻上チキSession(※1)を聴きながら、溜飲を下げた思いがしております。そこでは「切り取り民主主義」の選挙であったというフリーランサーの畠山さんの冒頭の発言があり、途中でTV局が最後まで放映しなかった、石丸氏に対する武田砂鉄さんとのやりとりが録音されていました。その会話のやりとりをお聞きしていて、東京新聞の指摘していた危うさを再認識しました。(※1https://www.tbsradio.jp/articles/85382/

 日にち変わり、今週の月曜日(7/15)のNHKの徹底対論「日本の政治を問い直す」(※2)という番組でいみじくも、対論者の一人保阪正康氏が、都知事選の石丸氏について「旧軍人の発想」の持ち主なんだなあー、こういう人に権力を持たせるのは良くないという所見を述べておられたことが印象的でした。武田砂鉄氏が問いただそうとしたこともまさしくそのことで、その問いを無視し切った石丸氏に危うさを覚えました。若い十代二十代の方の支持が圧倒的に多かったことを思うと前途暗澹たる思いにさせられます。(※2 https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=9177_01_4031736 )

 東京新聞の7/14(日)の「時代を読む」には目加田説子氏が「『同時代史』刻む『世界選挙年』」と題して一連の選挙における民意のあり方を問うて一文を書いておられます。文頭と文末の文章を以下に載せさせていただきました。

70以上の国・地域で約20億人の有権者が意思表示する。かつてない「世界選挙年」も折り返し点を過ぎた。・・・・変わるもの、変わらないもの、次々と続く選挙は、着々とこの世界の「同時代史」を刻んでいる。

 その舌の根も乾かないうちにとんでもない事件が起こりました。言うまでもなく、トランプ大統領候補の暗殺未遂事件です。早速、トランプ氏の襲撃現場での写真はTIMEの表紙を飾るということです。かつてドラクロワが「民衆を導く自由の女神」を描き、拍手喝采を受けました。しかしトランプ氏は絵でなく、写真です。その迫力は推して知るべしです。しかし、ここにも「切り取り民主主義」が顔を出す恐れはないのでしょうか。

 「あなたがたは、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることを知らないのですか」と警告を発せられている主のおことばをますます肝に銘じたい思いです。

さあ、これを聞け。愚かな思慮のない民よ。彼らは、目があっても見えず、耳があっても聞こえない。あなたがたは、わたしを恐れないのか。ーー主の御告げ。ーーそれとも、わたしの前でおののかないのか。わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。(旧約聖書 エレミヤ書5章21〜22節)

無限の力と不尽の狂暴さを有する海ーー。ところが、神はなんと、あのチッポケな、それこそ吹けば飛ぶような”砂粒”をもって、荒海をとどめつないでおられる!・・・最も微弱なるものをもって、最も強大なるものを撃つ、その神を恐れよ。(F.B.マイヤー著「きょうの力」490頁)

2024年7月16日火曜日

季節は巡り、時は動く(上)

梅雨空に 百日紅咲く セミの声
 梅雨に入り、雲が空を覆い、あの「熱闘太陽」の照り輝きから解放され、蒸し暑いですが、しばし涼しく感ぜられる日々です。でも梅雨が明ければ、一気に熱暑が全開モードで迫って来るんですね。こんな時、友人が先週コロナに感染したことを知りました。またコロナが再び流行っているとも聞いています。夢々油断はできません。

 さて、昨日は雨あがりの古利根川の土手を久しぶりに歩きました。そしていつの間にか、同じだと思っていた風景に微妙な変化が生じていることに気づきました。それは小鳥の声に混じって、セミの声が聞こえて来、それが支配的になりそうな予兆を感じたからです。

 最初、小鳥の囀りとは異なる、小さな余り聞き慣れない声が、しました。同行者である家内は素早くその声のする方向を見つけ手招きしてくれました(記憶のままならない家内に対して、私は耳が聞こえず、補聴器のお世話になっているのですが、自然の識別力は家内の方が私よりも優れているようです)。はるか上方向にいるセミの様子を家内の指図に従ってiPhoneでキャッチしたのが、この写真です。真ん中の黒い部分にセミがいます。iPhoneにとってはこれがギリギリの限界でした。しかも、正直に、こんな小さな映像では識別が困難なのでしょう。「虫」と表示して来ましたが、拡大してみると肉眼でセミであることがわかります。セミは桜の木肌に埋もれるかのように留まり、全く保護色そのもので、家内の指摘がなければ見過ごしてしまうところでした。

 「ミンミン」ではない、違う声の出現に耳が一挙に開いたのでしょうか、それまで注意しなかったセミの声でしたが、その後は、あの大コーラスを思わせる「ミンミン」という啼き声となって、桜の木々の間から聞こえて来るようになりました。着実に時は巡っているのですね。こうして微妙な季節の移り変わりを体感する時、うかうかしておれない気分にさせられるのも生物としての人間の本能でしょうか、不思議ですね。でも、このような私たちに、それ以上にたいせつなことは「時のしるし」を知ることだと、イエス様は次のように言っておられます。

「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、朝には、『朝やけでどんよりしているからきょうは荒れ模様だ。」と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるし(※)のほかには、しるしは与えられません」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。(新約聖書 マタイの福音書16章2〜4節)

※ヨナのしるしとは、ヨナが魚の腹にいて、三日ののちに生きて出てきたように、イエスも死に、三日目に、再びよみがえることを指します。ウオッチマン・ニーは書いています。「ヨナのしるしは主の死と復活を証します。ヨナは彼自身の地を離れなければなりませんでした。主も同じことを行なわれました。ここの「悪い」とは人の性質のことを言い、「姦淫」とは不正常な交流を意味します。このことからわたしたちは、一人だけでなく、すべての人が悪いことを見ます。ですから、主は彼らを去られたのです。」(『ウオッチマン・ニー全集第一期15巻225頁より引用)

2024年7月15日月曜日

味わい深い、一つの彫像・一つの俳句


 写真というものはありがたいものですね。この写真は一月半ほど前に、古利根川の公園橋のたもとにある彫像を撮影したものです。その時、一人の方が、前に設けられたベンチを利用して、サキソホンをやおらケースから取り出して、練習を始められるところでした。(家では隣近所に迷惑になるので、公共空間を利用して、音を出しても邪魔にならないようにと、いつもこの場所に出て来ては練習を繰り返されているのでしょうか)ご丁寧に、通りすがりの私たちに「(練習していて)いいでしょうか」と言われ、「いいですよ」と申し上げ、早速、家内は聞き入っていました。私は他の予定もあり、その方の演奏をゆっくり堪能するわけにもいかなかったので、頃合いをみて、家内を促し、この何度か見慣れている彫像(?)をiPhoneに収めて立ち去りました。

 この馬車の姿、後ろには立ち姿の貴婦人が窓外の景色を見ている風であり、前には御者が手綱を握っているだけで、それ以外の乗客の姿は見えない、見えるのは五つの窓(?)という極めてシンプルな図柄です。とても、(私には)日本とは思われない異国の古風な絵柄に思われてなりませんが、それは文明開化の明治の日本の姿を表しているのかも知れません。ほとんど人々の目に触れることもなく、ひっそりと橋の下に蟄居しているかのようです。それでいて、駅馬車が向かう先には、何か新しい地への期待が込められているのではないでしょうか。

 作者も、その制作意図もわからないこの写真を引っ張り出して、このように勝手に想像を逞しくしました。ついでに彫像の前のベンチを利用して演奏を始められたその方のサキソホンの音色が聞こえて来るようで聞こえて来ません。こればかりは我が音痴をいくら嘆いてみても仕方のないことです。

2013.8.8 野川に抜ける道(小金井)
 全く別件ですが、前回、栄水晴夫さんという方の俳句を紹介しましたが、その後、その方が詠まれた別の句があることをネットで知りました。その句は次のものだということです。

 野川みな 流れ桑の実 熟れむとす

でした。その掲載は隣町の越谷の俳句大会の入賞作の一つとして市広報に掲載されていたのですが、何と1967年(昭和42年)ではないですか。私が大学を卒業し、社会人としてスタートを切った記念すべき年でした。その頃は、今よりも「桑の実」は身近だったのでしょう。そして「野川」はちょうど11年前の2013年5月から数ヶ月の間、次男の妻の突然の病の見舞いのため、春日部から西国分寺の多摩医療センターまで、さらには小金井のリハビリセンターへと出かけた日々を思い出させる、私にとっては一入感慨深い川の名前でした。その野川の川の流れを作者はこのようにはるか四十数年前に詠み込んでおられたのです。

 前回のブログで触れましたような訳で、知ることになった「植田」で始まる「古利根」を詠み込まれた栄水晴夫さんの句は、ここでは「桑の実」を「野川」の流れの中に詠み込まれているのです。そして両者に共通する「流れる」という言葉に作者が川の流れを通して自然を深く詠み込まれたんだと思い、この方がどんな方かはわからないのですが、大変興味を覚えました。もし我に詩心があれば、あの苦しかった日々、私も、野川を前にしての一句を詠めるのになあーとも思わされています。でも、下の聖書のことばはすべてにまさっており、私はこのみことばに脱帽せざるを得ません。

しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(旧約聖書 イザヤ書64章8節)

2024年7月13日土曜日

かくしてこの日は終わりぬ


  今日は珍しい一日でした。お昼前、孫が次女に連れられてやって来ました。なぜか、五ヶ月なのに、私の顔を見てニコッと笑います。それだけで十分なのですね。昼食は娘手製のお好み焼きで舌鼓を打ちました。午後からはZOOMで祈り会なので孫との交わりは断念しました。祈り会の出席者は、全部で七名でした。前週、欠席した私を気遣って声をかけていただいていましたので、悔い改めて、出席できました。何とみんなで輪読した聖書個所は最後に掲げるみことばをふくむ新約聖書のコロサイ人への手紙でした。

 その祈り会の間に孫娘と次女は帰ってしまいましたので、都合二、三時間の滞在だったでしょうか。朝できなかった散策を果たすべく、古利根川目指して自転車で出かけました。いつも自転車を置くお社のそばの田んぼや畑はもうすっかり夏モードです。毎日のように放映される、豪雨と盛夏に当てはめれば、今のところこちらは「盛夏」一色です。

 三時を過ぎ雲が出ており、風もあり、それなりに快い散歩日和となりました。いつものようにこの時は珍しく小鳥の声にも注意せず、その時、フッと川縁の句碑が気になりました。その句は

  植田千枚 育て古利根 川流る  栄水朝夫

でした。ずーっと、それまでこの句碑もかつて記しました蕪村の句と同様に素通りでした。古利根川がどうして植田と関係あるのかと、私は浅はかにも考えていて、そのせっかくの句を読み落としていたのです。ところが、カルガモが過去一ヶ月あまり、私の関心の的でした。そしてそのフィールドは「植田」でした。中学時代、Wednesday を、「水田に苗を植えんず」デイだよと、水曜日がWednesday だと覚えた懐かしい記憶がありますが、今回、その「植田」の句碑を改めて読み直す思いに駆り立てられたのです。そしてそうだ、古利根が植田千枚も育てているんだと、心の中で作者に快哉を叫んでいたのです。そのため今日は冒頭の東武野田線の走る鉄橋と古利根川を併せて撮ってみました。

 その帰りのコースに入りかけてしばらく、進んだところ、小鳥の大きな鳴き声が前方から聞こえて来ました。鳥と言えば、必ず逃げられてしまうのに、その小鳥は色も鮮やかで、しかも二羽の鳥で自転車のハンドルの上に止まって盛んに鳴きながら動いているのです。その近くには親子の方がカメラを手にし、その動きを眺めておられる様子でした。私はその交わりに入っていいのか戸惑いながらも、咄嗟に、その鳥の飼い主の方に、「写真を撮っていいですか」と、許可を求めていました。私にとっては間近で撮れるという興奮もあって、その方のお許しのまま、何枚か撮らせていただきました。そのうちにその方が言われるには、「テレビ朝日の朝の番組で出ていますよ」という話でした(※)。いったいその小鳥の名前は何かわからないので、尋ねておりますと、「・・・インコ」と答えてくださいました。私たちには思わぬ珍しい小鳥との出会いになりました。(※ https://www.youtube.com/watch?v=AsOufDzsuKk )

 夕食終わり、家内はブラックベリーのジャム作りに夢中になっています。しかし種があり中々難しそうです。そうと知って、次女がレシピをLINEで送って来てくれましたが、果たしてどうなのでしょうか。左の写真は、朝方ブラックベリーならぬ、ブルーベリーの採取に夢中になっている家内の姿です。家内にとってはブルーベリー、ブラックベリーの採取、ジャム作りと孫との対面、はたまたインコとの出会いでした。かくして、今日も一日が終わりそうです。朝からの日課の聖書の輪読はまだできておりません。代わりに祈り会で示されたみことばを書きとめておきます。

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(新約聖書 コロサイ人への手紙3章12〜15節)

2024年7月9日火曜日

散策の友、生きとし生ける者たち


 今となっては、私にとっては懐かしいカルガモのつがいの姿です。ちょうど7月1日の姿でした。それ以後毎回注意して見ていますが、もはやこの田んぼからは完全に足を洗った(?)ようです。その代わりと言っては何ですが、翌日二日には下の写真のように、カルガモ二世の姿でしょうか、古利根川本流で泳いでいるのを見つけました。

 さらに、五日六日と両日にわたって、畑の中に、雉(きじ)を見つけました。雉は、今まで見たのは、数年前に長野県御代田町で山道を散策しているおり見た以来ですから大変びっくりしました。その赤い顔(?)と言い、黒と緑、さらに長い尾羽とどこを見てもどうしてあんなに綺麗に装っているのだろうかと思わされました。残念ながら、iPhoneではキャッチ不可能で、こちらが構えるやコソコソと歩き出して逃げて行きました。
 私たちにとっては今や唯一のオアシス(?)街となった感のある、古利根川縁のわずか30分足らずの散策ですが、緑陰の風を受けながら、様々な鳥諸君の動向を感じつつ歩いています。これだけは毎日欠かすことなく、聖書輪読と並行して行なっていく日課となりました。

 今日は、この半年以上護岸工事で立入禁止区域になっていた下流の両岸を歩きましたが、一、二羽の白鷺を見たばかりで、いつものような心踊る散歩とはなりませんでした。護岸工事は必要なのでしょうが、生態系を崩してまでやって欲しくないなと思いながら帰ってきました。


 いつも散歩する上流では、カイツブリがあの小さな体で潜る姿が散見できますし、青鷺は青鷺で天下を睥睨するが如き姿で川中の高所から眺めては、大きく羽ばたきして私たちを圧倒させます。亀はそれぞれ親子なり夫婦なりでいますが、私どもが手でその方向を指さそうものなら、どんなに離れていても、恥ずかしそうに、水中に身を隠すのです。そのかわいさがたまらないです。椋鳥や雀、鳩は餌を食べるのに余念がありませんし、そこにカラスが必ず割って入ります。そして昨今ではいつの間にかトンボがたくさん飛び交うようになりました。どこを見ても新しい気づきを与えられないところはありません。けれども、フッと、ああ、こういうふうに元気で歩けるのも今のうちだと思うとさびしくなります。

 この投稿を読み聞かせたら、家内は、「そんなにたくさん生き物がいるんだ、すっかり忘れてしまっているのに、よく思い出して書けるね」と言いました。生き物、そうです。生き物は動物と限らず、植物の花々、草々にも感謝したいと思います。

 そう言えば、昨日7月8日は九人目の孫が誕生して五ヶ月目を迎えたのでした。今になって気づきました。先週木曜日、その孫を訪ねてその元気な姿を見て安心して帰ってきたばかりなのに。もう、その肝心なことは忘れてしまっているのですね。この孫にも、私たちのわがままのために十字架上で死んで三日後によみがえられたイエス様を信じて「新(しく)生(れる)」時が与えられるように祈りたいです。それが責めてもの私たちの残された余生の願いです。

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(新約聖書 1ペテロ1章3節)

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように、主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召されて方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(新約聖書 1テサロニケ5章23〜24節)

2024年7月3日水曜日

タイマツソウ


 もう、一週間ほど前になるが、庭に花が咲きました。例により、何という花?と聞きますと、「たいまつ草じゃない?」と言います。なるほど、「たいまつ」の形をしていますね。二、三時間ほどして、「この花、何と言ったっけ」と聞くので、「あれっ、さっき、たいまつ草って教えてくれたじゃない」と言いました。してみると、最前彼女が答えたのは「瞬発力」によるものだと思わされ、人には、たとえどんなにある器官が壊されようとも、そのような能力は失わず備えられているんだと嬉しくなりました。

 当時、たまたま、『士師記』でギデオンが登場する場面を読んでいましたので、さらに新鮮な思いで、「たいまつ」を思うことができました。聖書の記述は次のとおりです。

ギデオンと、彼といっしょにいた百人の者が、真夜中の夜番の始まる時、陣営の端に着いた。ちょうどその時、番兵の交替をしたばかりであった。それで、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていたつぼを打ちこわした。三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、それぞれの陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。(旧約聖書 士師記7章19〜21節)

 このくだりを、これだけでは「たいまつ」の意味が分かりづらいので、念のため、F.B.マイヤーの『日々のみことば 旧約2巻』(同書31頁)を読んでいたら、次のように書いていました。

角笛の響き、つぼを打ち砕く音、たいまつのひらめき、叫び声が陣営の三方から起こると、眠っていた敵の軍勢は非常に驚き、あわてふためいた。パウロが、神の光はその時代の暗やみの中に輝いたと述べ、その光を土の器の中に入れているのは「この測り知れない力が神のものである」ことが明らかにされるためであると認(したた)めたとき、明らかにこの光景が彼の心の中にあったに違いない。私たちは、地上の悲しみや迫害に平安を破られ、力をそがれるとき、あまり取り乱すことのないようにしよう。ーーそれは土の器がこわれることなのである。私たちのなすべきことは、たいまつの火が自分のうちで燃えるよう心を配ることである。

 パウロが2コリント4:6以下を、このようなギデオンの故事を思い浮かべて書いたのだろうと言うマイヤーの註解を読むにつけ、劣勢のうちにあったギデオンがつぼを砕き、たいまつをかかげて戦い、勝利する意味を教えられました。

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(新約聖書 2コリント4章6〜10節)