2024年7月9日火曜日

散策の友、生きとし生ける者たち


 今となっては、私にとっては懐かしいカルガモのつがいの姿です。ちょうど7月1日の姿でした。それ以後毎回注意して見ていますが、もはやこの田んぼからは完全に足を洗った(?)ようです。その代わりと言っては何ですが、翌日二日には下の写真のように、カルガモ二世の姿でしょうか、古利根川本流で泳いでいるのを見つけました。

 さらに、五日六日と両日にわたって、畑の中に、雉(きじ)を見つけました。雉は、今まで見たのは、数年前に長野県御代田町で山道を散策しているおり見た以来ですから大変びっくりしました。その赤い顔(?)と言い、黒と緑、さらに長い尾羽とどこを見てもどうしてあんなに綺麗に装っているのだろうかと思わされました。残念ながら、iPhoneではキャッチ不可能で、こちらが構えるやコソコソと歩き出して逃げて行きました。
 私たちにとっては今や唯一のオアシス(?)街となった感のある、古利根川縁のわずか30分足らずの散策ですが、緑陰の風を受けながら、様々な鳥諸君の動向を感じつつ歩いています。これだけは毎日欠かすことなく、聖書輪読と並行して行なっていく日課となりました。

 今日は、この半年以上護岸工事で立入禁止区域になっていた下流の両岸を歩きましたが、一、二羽の白鷺を見たばかりで、いつものような心踊る散歩とはなりませんでした。護岸工事は必要なのでしょうが、生態系を崩してまでやって欲しくないなと思いながら帰ってきました。


 いつも散歩する上流では、カイツブリがあの小さな体で潜る姿が散見できますし、青鷺は青鷺で天下を睥睨するが如き姿で川中の高所から眺めては、大きく羽ばたきして私たちを圧倒させます。亀はそれぞれ親子なり夫婦なりでいますが、私どもが手でその方向を指さそうものなら、どんなに離れていても、恥ずかしそうに、水中に身を隠すのです。そのかわいさがたまらないです。椋鳥や雀、鳩は餌を食べるのに余念がありませんし、そこにカラスが必ず割って入ります。そして昨今ではいつの間にかトンボがたくさん飛び交うようになりました。どこを見ても新しい気づきを与えられないところはありません。けれども、フッと、ああ、こういうふうに元気で歩けるのも今のうちだと思うとさびしくなります。

 この投稿を読み聞かせたら、家内は、「そんなにたくさん生き物がいるんだ、すっかり忘れてしまっているのに、よく思い出して書けるね」と言いました。生き物、そうです。生き物は動物と限らず、植物の花々、草々にも感謝したいと思います。

 そう言えば、昨日7月8日は九人目の孫が誕生して五ヶ月目を迎えたのでした。今になって気づきました。先週木曜日、その孫を訪ねてその元気な姿を見て安心して帰ってきたばかりなのに。もう、その肝心なことは忘れてしまっているのですね。この孫にも、私たちのわがままのために十字架上で死んで三日後によみがえられたイエス様を信じて「新(しく)生(れる)」時が与えられるように祈りたいです。それが責めてもの私たちの残された余生の願いです。

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(新約聖書 1ペテロ1章3節)

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように、主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召されて方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(新約聖書 1テサロニケ5章23〜24節)

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