もう、一週間ほど前になるが、庭に花が咲きました。例により、何という花?と聞きますと、「たいまつ草じゃない?」と言います。なるほど、「たいまつ」の形をしていますね。二、三時間ほどして、「この花、何と言ったっけ」と聞くので、「あれっ、さっき、たいまつ草って教えてくれたじゃない」と言いました。してみると、最前彼女が答えたのは「瞬発力」によるものだと思わされ、人には、たとえどんなにある器官が壊されようとも、そのような能力は失わず備えられているんだと嬉しくなりました。
当時、たまたま、『士師記』でギデオンが登場する場面を読んでいましたので、さらに新鮮な思いで、「たいまつ」を思うことができました。聖書の記述は次のとおりです。
ギデオンと、彼といっしょにいた百人の者が、真夜中の夜番の始まる時、陣営の端に着いた。ちょうどその時、番兵の交替をしたばかりであった。それで、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていたつぼを打ちこわした。三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、それぞれの陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。(旧約聖書 士師記7章19〜21節)
このくだりを、これだけでは「たいまつ」の意味が分かりづらいので、念のため、F.B.マイヤーの『日々のみことば 旧約2巻』(同書31頁)を読んでいたら、次のように書いていました。
角笛の響き、つぼを打ち砕く音、たいまつのひらめき、叫び声が陣営の三方から起こると、眠っていた敵の軍勢は非常に驚き、あわてふためいた。パウロが、神の光はその時代の暗やみの中に輝いたと述べ、その光を土の器の中に入れているのは「この測り知れない力が神のものである」ことが明らかにされるためであると認(したた)めたとき、明らかにこの光景が彼の心の中にあったに違いない。私たちは、地上の悲しみや迫害に平安を破られ、力をそがれるとき、あまり取り乱すことのないようにしよう。ーーそれは土の器がこわれることなのである。私たちのなすべきことは、たいまつの火が自分のうちで燃えるよう心を配ることである。
パウロが2コリント4:6以下を、このようなギデオンの故事を思い浮かべて書いたのだろうと言うマイヤーの註解を読むにつけ、劣勢のうちにあったギデオンがつぼを砕き、たいまつをかかげて戦い、勝利する意味を教えられました。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(新約聖書 2コリント4章6〜10節)
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