梅雨空に 百日紅咲く セミの声 |
最初、小鳥の囀りとは異なる、小さな余り聞き慣れない声が、しました。同行者である家内は素早くその声のする方向を見つけ手招きしてくれました(記憶のままならない家内に対して、私は耳が聞こえず、補聴器のお世話になっているのですが、自然の識別力は家内の方が私よりも優れているようです)。はるか上方向にいるセミの様子を家内の指図に従ってiPhoneでキャッチしたのが、この写真です。真ん中の黒い部分にセミがいます。iPhoneにとってはこれがギリギリの限界でした。しかも、正直に、こんな小さな映像では識別が困難なのでしょう。「虫」と表示して来ましたが、拡大してみると肉眼でセミであることがわかります。セミは桜の木肌に埋もれるかのように留まり、全く保護色そのもので、家内の指摘がなければ見過ごしてしまうところでした。
「ミンミン」ではない、違う声の出現に耳が一挙に開いたのでしょうか、それまで注意しなかったセミの声でしたが、その後は、あの大コーラスを思わせる「ミンミン」という啼き声となって、桜の木々の間から聞こえて来るようになりました。着実に時は巡っているのですね。こうして微妙な季節の移り変わりを体感する時、うかうかしておれない気分にさせられるのも生物としての人間の本能でしょうか、不思議ですね。でも、このような私たちに、それ以上にたいせつなことは「時のしるし」を知ることだと、イエス様は次のように言っておられます。
「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、朝には、『朝やけでどんよりしているからきょうは荒れ模様だ。」と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるし(※)のほかには、しるしは与えられません」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。(新約聖書 マタイの福音書16章2〜4節)
※ヨナのしるしとは、ヨナが魚の腹にいて、三日ののちに生きて出てきたように、イエスも死に、三日目に、再びよみがえることを指します。ウオッチマン・ニーは書いています。「ヨナのしるしは主の死と復活を証します。ヨナは彼自身の地を離れなければなりませんでした。主も同じことを行なわれました。ここの「悪い」とは人の性質のことを言い、「姦淫」とは不正常な交流を意味します。このことからわたしたちは、一人だけでなく、すべての人が悪いことを見ます。ですから、主は彼らを去られたのです。」(『ウオッチマン・ニー全集第一期15巻225頁より引用)
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