2023年3月27日月曜日

受肉者耶蘇(15)見せ物のメシヤ像の誘惑

4 有司との同盟

 しかし、以上の他にもなお方法が無いのではありませんでした。すなわちユダヤの有司と同盟されることであります。サンヒドリンの如きは政策上喜んでイエスを迎え、これを保護したに違いありません。イエスが始めてエルサレムに現れ給うや、この政治機関は、これをくわしく観察せしめんがために、その議員の一人にして、温厚の君子ニコデモを遣わして、個人として接見せしめたのであります。イエスにしてもし彼らの建言を入れられるならば、平和の間に、何らの妨害をも被らず、その職分を続行せられることができたでありましょう。これは心をそそる有望な予想であります。

 しかし、イエスはなおこれにも顔を背けられたのであります。これと等しい誘惑は、サンヒドリンの代表者の来訪とともに、ヨハネをも試みたところでありました。ところがヨハネすら紛然としてこれを叱咤しました。イエスはヨハネにまさって一層明らかに有司の人物を察知して、その建言の動機を早くも看破されました。 俗臭芬々堕落せる心地をもって彼らはこの新運動の牛耳を握らんと欲する者であります。彼らは民衆の帰服せる預言者を圧迫するの愚を知るがゆえに、その傀儡としてこれを保護するのを安全であると心得ていました。しかし、ヨハネとの提携がすでに難しいならば、イエスとの提携はさらに一層の難事でありました。

 イエスは神よりの依託を負っておられるがゆえに、このような世界人類中の少数者に認識される必要がないのでありました。祭司商売や儀式万能主義はイエスの敵であります。どうして死をもって戦いを挑まれるはずのこのような団体と同盟することができるでありましょうか。

5 その職分の制限

 『この世のすべての国々とその栄華』のまぼろしがイエスの眼前に彷彿せるとき、おそらくさらに今一つの思想がその胸中に沸き起こったことでありましょう。イエスは『イスラエルのメシヤ』であると同時にまた『世界の救い主』であるとするその職分には表面矛盾がありました。これがイエスの地上の生涯に絶大な憂憤を与えたもので『茫々とした慈悲の大海』をその胸の内に湛えつつもなお、全世界を覆う情を圧搾して、人類中のただ一部民族の間に閉じ込めなければならなかったことです。

 もし不敬虔に陥る虞れがなければ、イエスはこの天職の制限に対して伝道期間絶えず憂悶し、救いを渇望し、切実なる要求を持っていながらもなお滅び行く、国外大世界の人類を偲び痛み悲しまれたことは明らかであると言っても差し支えはないでしょう。その自らを虚しくして人と成られた間に、その恩寵を制し、心の赴くところを限られることは耐えることのできなかったほどの難事であったでありましょう。愛心を制限せられることは、その栄光を覆われ給うことに優る苦痛でありました。程もはるかなまぼろしを望んでは、国境を踏破して、イスラエル国外の世界に広大な収穫地を求めんとの誘惑にかかられなかったのでありましょうか。しかもイエスは贖罪に関する神の計画が如何に遠き古から進行しているかを思い起こしつつその誘惑に勝たれるのでありました。

 その戦場はイスラエルの狭隘(きょうあい)な国内であります。そして摂理をもって準備の整った地域に、メシヤはその王国の良い種を蒔かれるべきであるのです。誘惑者が唆したように、また一度はその敵がその計画を惑わしめたように、イエスにしてもしイスラエルを棄てて、異邦の民に赴かれたならば、キリスト教はその行程を誤るべきはずであったでしょう(新約聖書 ヨハネの福音書7章35節)。ギリシヤの師父が『信仰』を『哲学』なりと論じたのは、隠れもない事実であって、もしイエスがギリシヤ人の間に伝道されたならば彼らはイエスをもって哲学者なりとしてこれを受け、救い主としてこれを仰がなかったに違いありません。その教訓もまた哲学と受け取られて福音となることはできなかったことでしょう。

6 イエスは殺されんがために降られる

 異邦人の間に赴かれればイエスは厚い待遇を受けられたに違いありません。しかし、これはイエスのさらに心を転ぜられるところではありませんでした。イエスは歓迎せられ、尊敬せられるためにこの世に降られたのではなく、排斥せられ、虐殺せられ、世の罪の犠牲たらんがために、この世に臨まれたことを覚悟せられました。『キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいる』(新約聖書 ルカの福音書24章26節)はずであります。これは初めよりイエスの意識せられるところであります。その死は決して、後からの発見でもなく、思いがけない『大段落』でも、また出来うべくんば逃れんと欲せられた不承不承の必要からでもありませんでした。

 始めより熟慮されたところであります。その伝道の当初に、苦難と復活との神秘的な預言を与えて、しるしを求める有司たちを困惑せしめられたのでありました(新約聖書 ヨハネの福音書2章18節〜22節)。ニコデモとの対話中にも、人の子は必ず『上げられる』必要があるのを示されたのであって、その意義は先ず十字架にかかって栄光に入ると言うにありました(新約聖書 ヨハネの福音書3章14節)。ガリラヤ伝道の開始後間もなく新郎は取り去られて、新婦の家の子らに悲しみあるべきを予告せられました(新約聖書 マタイの福音書9章15節、マルコの福音書2章19節〜20節、ルカの福音書5章34節〜35節)。

 イエスがかつて笑われたことがなく、常に哀しんでおられたとの伝説は確かな事実であります。イエスは死なんがためにこの世に降られ、その在世の日には一日として罪の重荷を卸された日はありませんでした。十字架はイエスの決勝点であって、その影は常に前途に暗闇を描き、また凄惨の気を漲(みなぎ)らすのでありました。『メシヤはこれらの苦しみを受けるべきにあらずや』されば自ら好んでイスラエルの国内に留まられたのであります。 

(2) 見せ物のメシヤ( A spectacular Messiahship)

 この世との提携を退けられるや、イエスは全く反対にして一層激烈な誘惑に襲われなさいました。イエスは神とは同盟せられて当然ではないでしょうか。時代はちょうど奇蹟を好んだころであって、しるしと表象を見るのでなければ、民衆はこれに信頼することができなかったのです。メシヤは自己の宣言の証拠としてしるしを示されるべきものと期待されました(新約聖書 ヨハネの福音書4章48節、7章31節)。イスラエルに起こった詐欺師は皆いずれも奇蹟を行なう力を示して民心の収攬を企てました。イエスの伝道の間にも、群衆や有司の求めるところは絶えず奇蹟でありました(新約聖書 ヨハネの福音書6章30節、2章18節、マタイの福音書12章38節、ルカの福音書11章16節、マタイの福音書16章1節、マルコの福音書8章11節)。

 すなわちこの一般の要望に投じてその宣言を確証せよとの思想が、荒野においてイエスの前に現れたのであります。その心は、後方の山を玉座としてきらめく神聖なる都城の上に転じました。この時を去る38年の後、主の兄弟ヤコブが投げ落とされたというその高い胸壁、すなわち『神殿の袖』に登って、過越節間近にして神苑に群衆の集まるその面前において、この眼も眩む高所から、身を倒し飛び降りるということを胸に描かれたのであります(旧約聖書 詩篇91篇11節12節)。これには神も関与せられるのであります。詩篇にはメシヤに関して『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手であなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする』とあるではありませんか。見えざる手はイエスを支えて、地上へ安全に降ろすことでしょう。そうして驚く群衆はイエスをメシヤとして祝しつつ、『ホサナ』と叫ぶに至るでしょう。

7 神を試みる

 イエスはこれをもって『神を試みる』こととして聖書のことばをもってこれを退けられました(旧約聖書 申命記6章16節)。いやしくも摂理によって身に転じ来ることならば、静粛、不動の心をもってこれに克つのは神の子であるものの特権であります。しかし軽率に危険のうちに投じたり、あるいはまた『この世の信任を誇る所為』、虚名を博するためとならば、決して神との協同を志すことはできません。見せ物に類する行動をもって喝采を博せんとする思想はイエスの拒まれるところです。驚駭は信仰ではありません。イエスは茫然たる群衆の喝采を受けるよりも、その宣言の道理より推して認識する、信仰的の霊魂に尊重されんことを望まれたのであります。

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