2023年3月28日火曜日

受肉者耶蘇(16)自己のメシヤ像の誘惑

 その伝道の間に、ただ不思議を行なう人物と認められることを身震いしつつ厭われ、奇蹟を行なわれるごとに盗みでもなすかのように忍びやかに行なわれるのでありました。その恩寵こそメシヤであることの証拠であって、いやしくもこれを実験したものはまた他の証拠を求める必要がなかったのであります。しるしを求めるのは結局その心が肉的であることを示しているに過ぎないのです。

(3)自己のメシヤ( A selfish Messiahship)

 荒野の滞在まさに終わらんとして、連日にわたる断食に加えるに間断なき苦悩に困憊されるや、イエスは最後にして巧妙極まれる誘惑に襲われ給いました。イエスの周囲には石灰石の砕片散乱し、一度目をその堆積に転ぜられるるや、この石を奇蹟を行なう力によってパンと変化せしめて飢えを癒さんかとの思想が起こったのであります。イエスはその力を持っておられました。後数日を出でずして、水を葡萄酒に変ぜしめ、また伝道の間に二回まで一握りのパンをもって数千人を養う食料と増殖されたのでありました。しかもイエスはその力をここに用いることを避けられました。考えてみるに、その伝道中奇蹟は皆ことごとく自己のために行われたのでないのを見れば理由はすでに明らかです。

 他の人の要求の声には敏活なイエスの権能は、自己のためには如何に重要な場合であっても鈍ったのであります。イエスの天職には自己を否定せらるる必要がありました。イエスは私たちの重荷を負い、私たちの杯を飲まんがために降臨せられたのであって、私たちのか弱き心を悟らんがためには、私たちの苦痛を極端までも実験せらるる必要がありました。苦痛を逃れんがため奇蹟を行なう力を応用せらるれば、悲しみの人にして悩みを知らんがため、人間に伍して、私たちの性状を実験せらるべき、犠牲を棄てらるることとなるのであります。この世に送られる一歩一歩の生涯に、イエスは己を棄てて、敢然としてこれを癒さんがためにこそ降臨せられたその悲痛に進んで身を投ぜられました。 

 『このようにイエスはこの世を送り給いぬ。
   己を棄てつつ己が痛みを厭わず
  我らの重きを負いて我らの悲しみをことごとく身に受けつつ
   己がためには何の楽しみも求めざる生涯を。』

8 イエスの純潔(The sinlessness of Jesus)

 イエスの遭遇された荒野における誘惑は、私たちの恩寵溢れる救い主の無垢純潔を最も鮮やかに証明します。タルソのサウロはアラビヤの野に退いた間に絶えず、イエス並びにその聖徒に対する『凶暴』を回想しました。これが彼の生涯につきまといつつその隠退の間にも、絶えずこれを嘆いて、出来うる限り、過去を償わんがため、その未来を用いんと悲痛惨憺誓ったものでありました。

 イエスの荒野の隠退はこれと天淵もただならざるの差がありました。イエスは過去を回想されるに何の遺憾も羞恥もありませんでした。その思いを潜められるのは過去にあらずして未来でありました。かつその一つに思いを集められるのは如何にして天の父のみこころを行ない、己に託された事実を完成すべきかと言うことにありました。過去には寸毫の遺憾もないのであります。

 悔恨の涙にあらず、贖償の誓いにあらず、ただ誘導を求められる祈祷、天の父のみこころの他は何の律法も認められない不動の覚悟、天の父の栄光の他何をも求められない未来にだけ面を向けられました。このようにこの世を贖う事業に聖別されたメシヤの生涯には、一抹の汚れだに留められなかったのであります。

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