2023年3月20日月曜日

「手紙」とはありがたきものなり

新春 先輩のふみ 戴きて
 手紙は貴重で、文句なく嬉しい。特徴ある字体からこの先輩の人柄がたちまち私の衷に立ち昇ってきた。仕掛け人は私だった。去る3月14日だったか、新聞に学士院受賞者の紹介がなされていた。その中に、大学の先輩がおられた。岩橋勝氏である。

 大学のグリークラブの指揮者で一二度、この方に練習ぶりを見てもらい指導を受けたことがある。しかし、私は後輩だし、個人的にお交わりしたことがない。それで同じ指揮者で私の一年先輩に電話で報せた。

 この先輩とは8年前(※)、お訪ねし、お交わりをいただいたが、交友関係の多いその先輩は私が名前を名乗っても顔が思い出せず、結局メッセンジャーズボーイとして岩橋さんの慶事をお伝えしたにとどまった。

 その私にこの絵葉書をくださったのである。絵はモラ作家としての奥様の作品である。文面を何度も読み返している。ありがたいものである。

 ところで新約聖書には手紙が21通ふくまれている。もし手紙なかりせば、新約聖書は完全にいのちを失うだろう。旧新約聖書からして、その全66巻が、すでに神の私たちに対するラブレターである。これまた繰り返して読んでいる。「発見」は新たなり、である。

※この先輩との交友についてはhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/04/blog-post_26.html に紹介したことがある。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(新約聖書 第一テサロニケ人への手紙5章16節〜18節)

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