2023年3月2日木曜日

ひとりぼっちじゃない(上)

犬ありて 檻のトナカイ 吠えるよう
 人様々。このお家は、玄関先に飾りを出される。いつも同じでなく、お宅の前を通り過ぎる時、気をつけて見ていると、時々模様替えをされる。どのような趣味を持っておられるのだろうか、と思ったりするのだが、面識もないので、お聞きしたことはない。

 ところで、これまで私は、このお家の方が折角飾っておられるのに、それが何か生きていないように思い、写真を撮らせていただくことはなかった。ところが、なぜか今回は写真に収めたくなった。お断りしなかったが収めさせていただいた。そして意外な導きがあったことを知った。それはちょうど、昨日から読み始め、今日読み終えた『雪のたから』(パトリシア・M・セントジョン作/松代恵美訳)の作中に何度も「彫刻」の話が出てきたからである。その彫刻はその方が門前に置かれている置物に通ずるものがあるやに思った。

 そして「彫刻」がこの作品のたいせつなモチーフの一つとなっていた。たとえば、こんな具合だ。同書102〜104頁

 もうルシエンは、森のはずれまで来ていました。この辺りでは、ぶなの木が、松の木にまじって生えていました。そして前方に、草の生えしげった、けわしい坂道が見えてきました。ぶなのつぼみはふくらんで、今にも開きそうです。そして、えだの所々に、毛でふかふかした葉がふき出ていました。もうすぐつぼみが全部開き、葉も大きくなって、森は大会堂のようになることでしょう。ルシエンは、丸太の上にすわり、小さな木切れを拾い上げて、それをナイフでけずり始めました。
 ルシエンは、これまでにも、別にどうするというあてなしに、ナイフで木をけずったことがよくありました。しかし、今は、何もすることがないので、かもしかを彫り刻んでみることにしました。ルシエンは、時間つぶしに木切れをけずり始めました。
 木切れは、だんだん、かもしかの形になってきました。ルシエンは、不思議なほど、興奮してきました。はじめて、ルシエンは、心の苦しみを忘れ去って、このことに熱中することができたのです。ルシエンは、心の中に、かもしかのすがたをえがいていました。そして、ルシエンの指が、心の中の絵を、木切れに切りきざんでいきました。まず、頭の方では、美しくカーブした角、突き出た鼻がでてきました。それから、りょうしの角笛を聞きわける、ピンと立った耳もできました。そして、四本のほっそりとした足、飛びあがろうとしているような格好の体ができあがりました。ルシエンは、かもしかを手のひらにのせ、うでをのばして、それをながめました。それは、まさしくかもしかの形をしていましたが、まだまだ不完全なものでした。ルシエンも、それでよいのかどうか、よくわかりませんでした。
 しかし、あのいやな出来事があってはじめて、ルシエンは、楽しい気持ちになったのでした。ルシエンは、自分にもできることがあるということを知ったのです。学校の成績が悪くても、彫刻することができます。ですから、これからは、もうひとりぼっちになっても、さびしくなくなるでしょう。ほかのこどもたちが、ルシエンを相手にしてくれなくても、静かな森に来て、美しい景色をながめながら彫刻することができます。

 ルシエンと言うのは、この物語に出て来る主人公の一人で、お父さんのいない12歳の少年だ。彼は自分の犯した失敗(いやな出来事)でクラスで誰にも相手にされなくなり、家庭にあってもその悪さのために母親や姉からも愛想をつかされた。そのとき、その孤独を癒してくれたのが森であり、そこで身につけたのが彫刻であった。そのことがきっかけになってさらに話は展開していくのだが・・・。

 この物語の作者は以前、このブログでも紹介させていただいた『オネシモ物語』https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/02/blog-post_14.htmlと同じ作者である。この話も全部で26話で構成されている、児童書である。しかし、児童書とは言え、これほど人間の本当の姿を描いているものはないと思った。すなわち作中人物はいずれも例外なく、どんなに意地悪い心を持っていても善良で、それぞれ一生懸命生きているのだ。そして、どんな悲しみも苦しみもそれを癒すかのように自然が与えられ、それぞれにはまたふさわしい賜物が与えられている。

 けれども人はそれだけでは生きられないのだ。人には家族、友人など自分を取り巻く人々との生活がある。そしてそこに必要なのは「愛」である。しかし、これまた例外なく人の本質は、自らが人に対して、不寛容であり、不親切であり、人をねたみ、自慢し、高慢であるのだ。物語はお父さんのいない貧乏な不幸を背負ったルシエンがどのようにして「愛」に目覚めていくか、いやルシエンだけでない、ルシエンが憎いと思い、意地悪をした成績のいい女の子アンネットもお母さんを幼くして亡くしている。その彼女もこの「愛」に苦しむのだ。その時、お母さんの代わりをしてくれたお祖母さんから折りに触れ、聖書からイエス様のことを聞く。苦しみ悲しみの中にあって登場人物のそれぞれを包む「愛」が証され、その「愛」に生きるように導かれていく。

 ちなみにそのお祖母さんは目がかすんで見えず、リューマチを患っている、81歳だと物語は明記していた。80歳の私にもすることはあるのだと思った。以下のみことばはその彼女が孫に示したみことばの一つである。彼女はこの愛はイエス様だと言う。だから「愛」の代わりにイエス様と置き換えて読んでみるとよりよく理解できるのだと思った。特に後半の「愛は自慢せず、高慢になりません」の意味を我が身に照らし合わせて、この書を通して深く教えられた。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。(新約聖書 1コリント13章4節)

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