2023年3月24日金曜日

桜の木の下のチューリップ

チューリプ 桜の下で 揃い咲き
 小学校の校庭の一角である。子どもたちはいつもどんな思いで、ここを通っているのだろう。桜花爛漫の桜は幹の小枝からも一輪二輪と花を咲かせていた。個人的には小学校入学のころ、桜花を愛でるよりは、チューリップが色とりどりの花を咲かせていたことがとても印象に残っている。きっと背丈に見合った花だったからだろう。何よりもそんな花を家では見なかったからのような気がする。1950年(昭和25年)の田舎の話だが・・。

 明日から春休みだ。春休みはあまりにも短い。しかし、何と言っても、学年がまたがるのが良い。そこには新しい出会いが用意されているからだ。もちろん不安もあるが、やはり期待も大きい。そして季節は春爛漫である。そのウオーミングアップのためにしばし訪れる休みである。先日祖父母慰問にやって来たこの春高校3年になる孫娘は塾に行かないからと言って、その時間も惜しいらしく、来るなり春休み期間の勉強のスケジュールを立てていた。殊勝な考え方だ。そこへ行くと私は全く正反対だ。

 教職を離れてすでに20年近くなるが、今朝も生徒を前にしての夢を見た。この夢は形態こそさまざまだが、何度も見させられる夢で、ほぼ同じ性質の夢である。委細は省略するが、要するに私の教材に対する勉強不足が中心になっていて、私がその結果被らなければならない事後処置に大変困っているという内容である。夢とは言え、自分で今もはっきりと自覚できるものだ。

 『桜の樹の下には』という梶井基次郎の彼の心象風景を描写した作品https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.htmlがある。それと違って、私が今日見た桜の木の下にはチューリップが時満ちて花を咲かせていた。もちろん桜も満開であった。そのように身近にある植物を指して、みことばは次のように語る。孫娘も私もともにその神を恐れて、今のこの時を生きたいものだ。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6章7節〜9節)

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