河岸に、自生する白百合の姿にハッとさせられました。夜目にも鮮やかに、という言葉がありますが、私にとっては、夏の真っ盛りの昼間に、白一点とも言うべき、目の前に現れた白百合の出現でした。「暑い」「暑い」と呪いたくなる熱波にもかかわらず、白百合は涼しげに川面に向かって美しい姿を披瀝しているのです。まさに脱帽ものです。
それだけでなく、私に、私の罪がまったく洗い浄められて、白くされた、その「白さ」を言い表した聖句を思い出させるに十分でありました。
旧約聖書のイザヤ書のほぼ冒頭部分にある次のみことばです。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良いものを食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。(イザヤ書1章18〜20節)
私は、己が罪を認めず、どれだけ神様の生ける眼を避けて、逃げ回っていたことでしょう。しかし、いつしか十字架上のイエス様は私の罪の身代わりに罰を受けてくださったお方だと信ずるに至りました。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(新約聖書 1コリント1章18節)
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