2024年8月29日木曜日

叔母の思い出(中)

 
 昨日撮影した、何の変哲もない一枚の写真です。しかし、私には画面中央にいる水鳥(青鷺?)が一羽、大きく羽根を広げ、何処からか飛んで来て、川中へと着水。その後、続け様にグングン泳いで行く姿は極めて印象的でした。その一部始終を目の当たりにしたものですから、この写真を見るたびに、躍動する「いのち」を感じて、私には捨て難い思いがしてならないのです。

 何もわからず、人生という海に飛び込んで来た私ですが、これまでいろんな人との出会いがあって、今の自分があることを思うと厳粛な思いにさせられます。家内がすっかり老いてしまい、いつの間にか、私たち相互の恋心が結婚へと発展していったことを忘れてしまい、叔母が私たちの結婚の仲介人だった、と思い込んでいるのも、あながち嘘ではなく、正解であるような気がしております。

 叔母は息子の恩師への礼をいつまでも厚くしていたようです。息子がお世話になってからもう10数年も経っているのに、恩師のお嬢さんの結婚のお世話をしようと、見合い用の写真まで預かっていたようですから・・・。ところが、私は、叔母のその思いはつゆ知らず、まったく無関係に、そのお嬢さんなる彼女と、たまたま彼女の弟の家庭教師をしていた関係で、出会い、結婚にまで導かれようとしていたからです。そのようなある時、叔母を訪ねたら、「浩ちゃん、奥川先生のお嬢さんと結婚するんだって!」とびっくりし(まさか、甥が自分の知らないところで、そのお嬢さんと深い交際を続けているとは知らず)、笑いながら「さすがに、”みす”ちゃんの子だわ」と言いました。母美壽枝が再婚の時、婿養子として迎える父に示した熱情は印象的で、親族の間では”大恋愛”だったと語り草になっていたので、そのことを暗に指した言葉でした。

 叔母と母は四人姉妹の中で、歳も近い妹、姉として、お互いに切磋琢磨して戦後の生活の切り盛りをしていたようです。その上、一人息子の教育には人一倍熱心で、それぞれがいのちをかけていました。小学時代には、昆虫採取や、ある時は「お城」や「港湾」の写生にと、二組の母子共々で出かけたこともありました。また、附属中受験の話まであり、それはさすがに実現しませんでしたが、中学に入ると、二人して高校の英語の先生に教えてもらうために出かけて学んだり、当時流行り始めたビタミン剤が頭にはいいというので、買い求めたり、SONYのオープンリールの録音機を購入し英語学習に打ち込もうとしたりしましたが、いずれも叔母の発案があってのことだったように想像しています。

 考えてみると、私は人生の様々な場面(病や死などもふくみ)で、叔母が見せる機微にわたる感情を、その一挙手一投足から随所・随所で学んで来たような思いがします。晩年まで彦根の家を守りつつ、字の創作意欲は盛んで、書家として、様々な作品を残していました。夏の今頃、故郷に帰省してご機嫌伺いに、訪れると、決まってカルピスや西瓜などが出され、互いの近況報告など、取り留めない話をしては、私は満足して帰って行くのでした。母を若くして亡くした私にとってそれは慰安のひとときでした。それだけに最晩年になった京都伏見での病床生活の枕辺を訪れ、過去を振り返りながら、虚心にお互いに話し合い、主の福音を伝えられたことは、私にとっては忘れられない、さらに幸いなひとときでした。

 一人子をどれだけ愛したか、叔母と母の生き様は私にそのことを十分教えてくれました。そんな人間の尊い愛にまさる愛をお示しくださったのが、父なる神様の愛です。それはご自分の一人子であるイエス様を、私たちの罪の身代わりに十字架におつけになったのです。叔母や母が示した愛を振り返りつつ私はその主の愛の深さを思わずにはいられません。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節) 

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