昨日も蝉君との出会いを期待しながら、桜の木々を見て回りました。さすがに、昨日見つけたのは三匹でした。しかも一匹は、私が夢中になって観察している樹幹に止まっている蝉とは別に、私にとって死角になっていた真上の枝にいたようです。後方にいた家内が見つけました。その蝉は、しっかりと家内に小便をひっかけて飛び去ったということでした。
穴ぼこだらけの地面や抜け殻は散見していましたが、こうして蝉時雨が頂点に向かい、一日も早く秋が来て欲しいと願いながら蝉探訪の散歩を続けております。そんなおり、公園にたむろしている十羽近くの鳩に遭遇しました。写真は、その中で恋仲としか思えない、彼氏、彼女の姿です。十羽近くいる鳩のうち、このペアーはいつまでも一緒でした。二人の交わす愛の交わりは微笑ましいものでした。
旧約聖書の雅歌は、主イエス様と主を愛する信者の関係を、花婿と花嫁に比し、描写したものだと言われていますが、花婿が花嫁に対して次のように言います。
ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ・・・(旧約聖書 雅歌4章1節)
と。この「鳩」について、ハドソン・テーラーはその『主イエスの一致と交わり(ソロモンの雅歌)』という書物の中で次のように語っています(同書29頁より引用)。
たかは美しい鳥です。そして美しく、鋭敏な目を持っています。しかし花婿は、花嫁の目がたかのようであることを望みませんでした。花婿の喜ぶ目は、無垢な鳩の優しい目なのです。主イエスがバプテスマを受けられた時、聖霊が鳩のように降りました。そして主がご自分の民ひとりびとりに求めておられるのは、この鳩のような性格なのです。
一方、我が国の笹尾鉄三郎も、その著書(『全集第一巻』235頁)でこの聖句について次のように言っています。
鳩の目は丸くはっきりしているが、鷲や鷹の目と違って柔和である。我らの霊的の目も是非とも明瞭で物を見る鋭さが必要であるが同時にまた柔和謙遜でなければならない。キリストが美しいと呼んでおられる理由はそこにある。このような目はいつもキリストを見、また主を待ち望む。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と言ったバプテスマのヨハネは、この目を持っていたので、自分も常にキリストを見、また人をもキリストに導くことができたのである。これはまた見えるところによらないで信仰によって歩くことができるように見る目である。
今回のブログ記事は、たまたま鳩10羽近くが、ちょうど夕涼みに私たちが集まっておしゃべりを交わすように集まっていたことがきっかけになりました。けれどもそのうちの二羽は最初から最後まで互いに愛を交わすのに夢中だったようです。その様に惹きつけられて何枚か写真を撮りましたが、すべてを語れませんでしたので、それをお見せしたく、またすっかり桜の木々が落ち葉を散らしている様も見ていただきたく、最初の写真をここにピックアップしておきます。これが遠目に見えた、彼氏と彼女の最初の姿でした。彼らもいつまでも「花婿」と「花嫁」と言われる睦まじい関係であって欲しいものです。
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