2024年8月28日水曜日

叔母の思い出(上)


 台風10号の進路には、正直参りますね。その発達ぶりは今後も予断を許さないようで、過去最強と言われています。お昼頃、散歩中に彦根のいとこから携帯に電話が入りました。9月1日に予定していた、叔母の十七回忌を、台風情勢のため中止にさせていただきます、という連絡でした。

 主催者としては、熟慮を重ねての判断だったと思います。こちらとしては先ずはホッとしました。私としては前日までギリギリ待って出かけようと思っていましたが、何しろ東海地方を経由しての彦根入りですから、果たして交通機関が機能するのかという一抹の不安がありました。

 そもそも叔母の十七回忌には私一人で十分なのですが、家内も同道させようと思いました。それは私たち夫婦の結婚には因縁浅からぬ叔母の存在があったからです。叔母は、私の母の妹で、かつ二人には、その子どもが一人息子で同い年だという共通点、しかも戦争未亡人だという共通点もありました(ただし、私の母は夫を亡くしたあと、家の跡継ぎがいないため、婿養子を迎え、その間に私が誕生しました。それに対して、叔母は再婚せず、戦死した夫との遺児を生み育て、姑さんに仕えて家を守る道を選ばれました)。

 母が胃癌で最後息を引き取った病院は、叔母の家から、当時七、八分の距離にあった彦根市立病院で叔母が昼夜にわたり、心底面倒を見てくれました。当時、私は高校三年を終える受験勉強真っ只中の頃で、薄情なことに母を見舞うこともせず、父や叔母たちがせっせと看病してくれました。その恩返しもあって、叔母が四十数年後、京都伏見の某病院にお世話になった頃は、何度かお見舞いに行き、みことばを読み、祈り、イエス様にある永遠のいのちを伝えさせていただきました。

 ところで、私の家内は私を知る、はるか十数年前の幼い頃に、叔母をよく知っていたのです。それは家内の父が小学校の先生であった時、いとこの担任であった関係から来たことです。教育熱心であった叔母は、何かと遠くにある家内の家(7、8キロほど離れたところ)にご機嫌伺いに出かけたり、恵比寿講に家内家族が彦根に出かけて、たまたま道で出会おうものなら、下へも置かぬ気配りをし、決まって、まだ小さい家内はじめ弟妹たちにお菓子をたくさん持たせてくださったそうです。その話をそれから、もう70年ほど経つのに、まるで昨日のごとく、その時の情景を家内は私に語るのです。

 その家内曰く、「叔母さんが私たちに結婚するように計らってくださったのよ」と言います。私はその話を聞きながら、そんなことはない、全然違う、肝心なこと(私が家内を好きになって、結婚したこと)を家内は忘れてしまっているのだと思って聞いていますが、この年になると今ではそんなことは、どうでもいいという結論になりそうです。でも、明日はその辺の事実を書かせていただこうと思います。

これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。命令はともしびであり、教えは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。(旧約聖書 箴言6章22〜23節)

0 件のコメント:

コメントを投稿