2024年8月15日木曜日

聖(きよ)らかなりブルー

炎天下 露草青く 涼呼ぶ
 今日の古利根川は、いつもより水嵩が多く、濁っていました。上流の地方にあたる地域の空模様が厳しかったのでしょうね。今日も樹幹に止まっている蝉を四匹目視しました。もちろん、今盛んに啼いている蝉のほんの一部に過ぎませんし、それだからどうだと言うことではありませんが、ゲーム的に桜の木々を、注意深く見る癖がついてしまった成果です。

 そんな散歩途中に、今日は露草に目が止まりました。まわり一面、緑の中で、あるかなきかの状態で、この何とも言えないブルーと、またしても雄蕊と雌蕊の配置・配色があり、自然のうちにある大きなアクセントを覚えました。

 一方、今日、覚えさせられた聖句は

「あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」(旧約聖書 1列王記9章3節)

でした。これはソロモンの建設した神殿、王宮が完成したあとに、主が聖別を宣言される言葉です。F,B,マイヤーはそのことに関して『きょうの力』という書物の中で次のように書いていました(同書207頁)。

いかに丹念に建てたとしても、それが聖別されなければ神殿とはなりえません、同様に、いかに教育を積み、教養を深めたとしても、その人が聖別されなければ、その才能は主のご用にたちません。いかに懸命に説教を組み立てて演説しても、神がその中で働かれないなら、空疎な音声として消え去るのみです。と同時に、もしみことばからそれるならば、たとえ聖別した神殿であっても、これを投げ捨て、物笑いや、なぶりものとし、廃墟とするという宣告には、厳然たる神の義の剣の鋭さが光って、私どもをひきしめないではおきません。

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