写本に あらわれし愛 知る盛夏 |
盟友(?)迫田ゆうさんが、昨日の東京新聞投書欄に「現金とクレカ戻って安堵」という投稿記事を載せてもらわれました。今朝の彼女のブログ記事によると、すっかり投稿したことも、あるいは、そのこと自体も忘れてしまっていたと書いておられます。 さもありなんと当方も思い当たりました。何しろ、一二年前でしょうか、自転車で走っている時、なけなしの預金通帳を路上で落としてしまい、後に気づいて真っ青になり、八方手を尽くした挙句、最後は警察に届けられていて、ホッと胸を撫で下ろした経験がありますが、今ではすっかり忘れ去っているからです。
ところで、冒頭の写真は同じ東京新聞の7月20日に掲載されたものを写真に撮っていたものであります。この頃、私は「鳥」の一挙手一投足に血眼になっていました(もちろん、今もそうなんですが・・・)。その私にとり、1300年代の聖書写本に小鳥の絵などがしつらえていることに大変な親しみを覚えました。ああ、昔の人もこうして写本に鳥の姿態を加えずにはいられなかったほどに日常生活で鳥は馴染み深いものだったのだなあーと思わされたからです。それだけでなく、その解説記事には次のような一文が載っていました。
このA4サイズほどの獣皮紙一枚に、いったいどれだけの時間と労力が掛けられているのだろうか。聖書の一節を記した文字も、口を指しながら礼拝するダヴィデ王の挿絵も、余白を飾る鳥やドラゴンのような生き物も、すべてが精緻で、ため息が出るほど美しい。近づくと、王冠や枠線に貼られた金箔(きんぱく)がきらめいている。かなうものなら、いつまでも眺めていたい。
いったい、この聖書写本は聖書のどの部分にあたるのか、聖書輪読者としては知りたいところですが、解説文では触れられていませんでした。ただ、私は、「口を指しながら礼拝するダヴィデ王の挿絵」という部分に痛く感動しました。とかく評判の悪いイスラエルですが、その二代目の王であるダビデ王についての記述があったからです。
ダビデ王については、旧約聖書のサムエル記から第一列王記に至るまで、実にその等身大の事績が、神様の視点から事細かく書かれています。ダビデの人間としての偉大さと同時に罪深き人間の性(さが)を赤裸々に覚えさせられます。その中でも最たるものは、彼の「姦淫」と「殺人」の罪でしょう。その彼が、我が口を指して礼拝すると言うのです。そして、私なりに想像を逞しくして、彼のその心は次の一節に通ずるのではないかと思い至りました。彼は生涯、主に愛され、主を愛した人でしたから。
あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(旧約聖書 詩篇119篇103節)
写本そのものの持つ雄大な歴史について全く無知な私にとって、この写本の存在を知らしめてくれた東京新聞の報道に感謝する者です。それだけでなく、あれやこれやで、その後も東京新聞の「本音のコラム」や「投書欄」で繰り返される日本・アメリカの政治の現状に対する異議申し立てなど、そして日々読み通している聖書に、導かれながら、久しく遠ざかっていたブログ投稿の間も歩んで来ました。その私にとり、この新聞記事の存在はもっと早く取り上げるべきだったのですが、いつの間にか忘却の彼方に置き去りにされてしまうところでした。
今回、迫田ゆうさんの「投書考」に刺激されて、私も「写本考」なる一文を計上させていただきました。
たびたび取り上げていただき恐縮しています。
返信削除東京新聞発言欄、今日からテーマ投稿「戦後79年夏」が始まりました。実はこちらでの掲載を狙っていました。
その前に前述のものが掲載されてしまい、夢は儚く消えました。私はどちらかというと、テーマに沿って書く方が好きです。
ペンネームはここの表記と一緒で「さこたゆう」です。念のため。