2024年8月12日月曜日

五匹の蝉君に出会えましたよ

 幼い頃、私は、夏休みと言えば、捕虫網を携えて、近くの神社の境内の森を友人たちと駆け回ったりしていました。今頃の小学生はどうしているのだろうかと、思っていたら、捕虫網を携えた親子に出くわしました。カゴには油蝉とともに、ツクツクボーシがしっかりと捕らえられていました。自らの子育ての折、どれだけ、甲斐甲斐しく世話をしているこのお父さんのように子どもたちのために労したかというと、内心忸怩(じくじ)たる思いを禁じ得ませんでした。

 私たちの子育て時代は、公私(教員生活と教会生活)ともに実に多忙で、子どもたちのために何もしてやらないうちに、気がついてみたら、それぞれの子どもたちは親の膝下を離れ自立して出て行っていました。残されたのは、この一家を公私両面で支え労した家内の極度の疲労です。普通では考えられない、労力を使い果たしてきた結果のようです。夫である私は、最近ようやくそのことを悟れるようになり、老後の日課として二人して「聖書輪読」と「散歩」に励むようにしております。聖書はともかく、日中の散歩は熱中症に二人して飛び込むような思いもしないではありませんが、家内は黙々と私の後についてきます。

 それでも二三年前は、元気で、お互いに話をし、屈託のない夫婦の交わりができましたが、この一二年家内はめっきり口数が少なくなり、ほとんど私主導で話をし、散歩をしております。その代わりに、家内は古利根川の川縁の動植物を心から味わっているようです。冒頭の写真は昨日数十本の桜の木々を見て回って、とうとう最終段階で(すなわち、数十本後に)見つけた蝉君です。近くに寄って騒いでも、余りにもじっとしているので、死んでいるのかと思い、思い切ってからだに手を触れたら、次の瞬間飛んで行きました。ホッとする反面、惜しいことをしてしまったとも思いました。

 今日は、今日で、昨日と逆順に古利根川を回りましたので、一番早く、昨日のこの桜の木に辿り着き、注意深く観察しましたら、何と三匹も、しかもミンミンゼミも含めて、しっかりと木に止まっているではありませんか。家内は関心なく、相変わらず、川岸の雑草取りに熱心になっているようでした。ところが、後半の方で今度は家内が別の木々から二匹の蝉を見つけました(上掲の写真がそれです、彼はこの状態で、健気にも鳴き続けていました!)。このところ、蝉時雨が何処でも盛んでしょうが、当方でも盛んですが、蝉本体は見つけられぬと思い定めておりましたところ、今日はお互いに、蝉を見る目が高められたのでしょうか、二人して合計五匹の蝉君と出会えたのです。

 たった一回の親子の蝉取りに出会ったことがきっかけで、蝉を直接見てみたいという深層心理が、二、三日のちにこのように実現するとは楽しいことではないでしょうか。そしてこの写真を見ながら、もう一つのバッタの写真を思い出しました。何日か前には蓑虫を見つけ、秋の近いことを覚えましたが、バッタもまた同じ思いがして写真に納めていたのです。けれども、バッタと言い、蝉と言い、何という保護色の持ち主でしょうか。主なる神様はこんなところにも、人間にだけでなく、生き物にまで優れた知恵を与えておられると感嘆しております。

 一方、今朝読んだ聖書の個所から以下のみことばを写しておきます。

神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。・・・彼は三千の箴言を語り、彼の歌は一千五首もあった。彼はレバノンの杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚についても語った。(旧約聖書 1列王記4章29、32〜33節)

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