2012年3月2日金曜日

充実した英国における生活

 英国に来た時、ウオッチマンは西欧でほぼ4ヶ月過ごし、アメリカ経由で11月には戻る予定だった。しかし、新しく友となり相談相手になった T・オースティン・スパークス氏ともっと意見の完全な交換をしないで帰ってしまうことは不十分のように思えた。それは彼が「キリストのからだの実際的な完遂」だと考えた問題に関してであった。彼がノルウエー、ドイツそしてスイスを経てパリに着いた時、上海の同労者からの手紙もこのことなしに帰国しないようにという要請であった。彼の「働きの再考」を英語に翻訳する必要があった。幸いなことにエリザベス・フィッシュバッヘルは何もしていなかったので、ウオッチマンに加わり、そこで同僚のフィリス・N・デックとともにこの仕事に携わった。それで彼女は二ヶ月間ウオッチマンが要約し、編集し、別の序言を書いているものを、翻訳した。

 とうとう一月には原稿が完成し、さらに4ヶ月間ロンドンへ戻り、大概はオナー・オウクを基地にし、その間オースティン夫妻との間で互に実のある友情が固められた。ここではまたしても集会があったが、四六時中というわけではなかった。 彼は英国人の家庭生活を味わうのに喜びを感じた。彼は以前にはむしろしゃちこばっていたのだが、今度はくつろいで子どもたちと隠れん坊をして黒板から彼の長いブルーのガウンがはみ出させてはすぐつかまえられたりした。一度、充実した会議で非常に効果ある説教をしてから、会議に出席した者の仲間に加わり、サリー州のヒースランドへ出かけたが、そこに出席した人は彼が側にいて全く愉快で、決して「すぐれて霊的な兄弟」のようでなかったことを覚えている。ウオッチマンは家庭ではおばあさんが部屋に入って来る時いつも誰も立ち上がらないことや、他方ではどなたかが愛玩している犬を間違って足を踏みつけでもしたらわびることさえするのに 驚かされていた。車で外出するときは、下り坂では雲南省時代は倹約を教えられていたので、車のエンジンはかけないように求めさえした。彼は子どもたちを連れ出しては中国料 理を食べさせた。けれども個人的には淡白な英国の食材には醤油で味付けする必要があると感じていた。醤油は彼が何とかしてしっかりとした味付けを守らねばならないと考えていたものだったからである。

 彼はもちろんあちらこちら自由に移動でき、ノーフォークのシェリングハムではマーガレット・バーバーのノリッジの友人であるD.M.パントンを捜し当てた。彼は彼女の書き物を大事にしていたが、彼女に対して彼は朝食に二個の卵を中国風に用意して自らの好みを現わそうとしたと言われている。別のオープン・ブレザレンの地方教会では建築家であるジョン・ライング(John Laing)氏(のちに卿)と出会った。ライング氏はウオッチマンが自分の働きに対する西側の資金援助の申し込みをどんなに潔く辞退したかを思い起こしている。そしてすべてのうちでもっとも幸せなことだったのはエクスクルーシヴ・ブレザレンの長年の友であるチャールズ・バーロウと暖かい仲直りの会合を個人的に持つ機会が与えられたことである。

  1939年5月に、ちょうど彼が英国を離れる前に、英語訳の「働きの再考(Rethinking the Work)」がロンドンで「私たちの宣教に関すること(Concerning Our Missions)」という題で「主の証人と証」誌のお墨付きで出版された。当時多くの人たちが夢中になって求めた小冊子となった。この時期は宗派を越えた宣教の全盛期だったと記憶されるに違いない。長い歴史を持つ宣教団体のなかにはこれまで極めて神聖視されたものもいくつかあったようだ。けれどもすでに二三の宣教団体は改宗者とどうかかわっていけばよいかについて組織固有のあいまいさに実際のところ直面し始めていた。いくつかの仲間うちでは、新しく生きた教会にしてはじめて働きの成果が維持され得るのだという見解が地歩を固めつつあった。そういう読者にとってはニーが強調する神だけに責任があるとする地方教会に関する論は新鮮な空気の息吹となった。それに加えて彼がなした「教会」と「働き」の区別、すなわち聖書に基づく合理的な結論は役に立つように思われた。これ以外にも明確な実践上の手助けになる本には会計に関する彼の頭脳明晰をあらわす章のような数節もあった。

(『Against the tide(流れに抗して)』by Angus Kinnear 152〜154頁より。今日の文章中に登場する「Rethinking the Work」の著作で彼が何を言おうとしたかその著作を直接確かめていないので、この短い文章での判断だが、引用者が今朝聖書を読んでいて示された下記の聖句はあながち無関係と思えないので記念に書き記しておく)

神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(新約聖書 1テモテ3:15〜16)

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