2012年3月3日土曜日

ああ、「主」にある愛の尊さよ!

兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。(新約聖書 1テサロニケ2:17〜18、3:1〜3)

 これはアテネ滞在中のことを後に回顧して述べたのであるが、当時の彼の心境を示すものとして価値無上である。彼の燃えさかっていた兄弟愛の貴さは、二千年後の今日も強くわれらの胸をうつものがある。

 アテネ滞在中に、かくテモテをテサロニケに遺した彼は、間もなくシラスをもマケドニヤ(多分ピリピ)に送って、ただ一人となった。そして市場に道を説き、 またアレオパゴスに福音の証をしたのち、敗軍の将のごとくただ一人にてコリントに来た。そして既に述べた通り、アクラ夫妻とともに天幕工として働きながら、安息日ごとに会堂にて十字架の福音を証した。間もなくテモテとシラスとはマケドニヤより来たりて、アクラの家にてまたパウロに会した。この時シラスは、多分ピリピ教会よりの愛の寄与をたづさえて来たのであろう。そしてテモテはテサロニケ教会の状況を報告して、迫害にかこまれながらの彼らの堅固の信仰について語った。彼の喜びは大きかった。この喜びが彼をしてテサロニケ前書を書かしめたのである。

 眼を閉づれば、当時の光景がありありと心に浮かぶ。ところは物質文化の世界的中心地であって、現代の大都会の比ではないとしても、豪華と繁栄と歓楽の渦巻きの中に大都会の一日は華やかに明け、また華やかに暮れたであろう。この華麗と騒音をよそにして、市の片ほとりに貧しき職工夫婦が日々の営みをしていた。 二人の年齢は分からないが、多分働き盛りの中年者であったであろう。その傍らに50歳ぐらいの人が、やはり同じ工に励んでいる。彼は背の低い、病弱らしい人であったが、どことなく一種の高気がその身辺にただよっている。百戦の過去を語るような奥深さがどこかに見える。その前に二人の青年があってしきりに何か語っている。その一人は恐らく30歳を出ていたであろうが、他の一人は30歳未満の、まだ子供らしい俤のただよっている若者であった。二人の語るのを聴いて、老人の顔はかがやいてくる。そのうちに工をやめて、歓びを顔一面にあらわして、若者の報告にますます熱心に耳をかたむける。語り終わって若者は一通 の手紙をさし出した。老人はそれを読んでますます顔をかがやかした。

 しかし若者が、あることをつけ加えて語ったとき、老人の顔はやや曇った。しかしそれはほんの一時であった。やがて三人はこもごも感謝の祈りをささげた。傍らにあって聴いていた職工夫婦もそれに加わった。老人の力強い祈りの声は一座を圧するようにひびいた。——多分数日の後、老人は若者に向かって口授した。それを若者は紙にしたためた。そして多分自らそれを携えて、テサロニケの教会に到った。かようにして、テサロニケ前書は草せられたのである。

 事は市の片隅の小さい家にて起こった。 たとい裏長屋ではなかったとしても、場末の小さい家で起こったことである。その時誰がそれをこの市において在った最大の歴史的事件と認め得たであろうか。50歳の労働者が20余歳の若者に口授したものが、一流の学者・思想家・文士の著作にくらべて、くらべ得ぬところの貴重な文書であるとは、誰か知ったもの があろう。然り口述者たる老人さへも筆記者たる若者さえも、また傍らにあった他の三人さえも、少しもそんな事を知らなかった。彼らはただ当面の要務を果たしたに過ぎなかった。ただ物質文化の中心地たる大都において、昼も夜も狂奔と歓楽の大波に漂っていた一切は忘れられ果てて、その場末の小屋に起こったこの事のみが永久に遺るというのは、そしてかの事どもよりもこの一事が人類の心霊と文化に多大の寄与をしたというのは、げに意味深甚のことであったというべき である。

(『畔上賢造著作集』1940年版274〜276頁「パウロの生涯」より引用。畔上氏は冒頭引用句の中でなぜか以下の聖句を省略している。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」参考のために書き加えることにする。)

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