2012年3月21日水曜日

自分自身に、よく気をつけなさい

 人が人を導くことは至難の業で、それは人間には不可能である。「説教」というものがある。「説教」は聞く人にそうなって欲しいと思って語るものである。また、「説教」を聞く人も自分が今の自分でなく、もっと成長したいと考えて「説教」を聞く。しかしそんなことが果たして可能なのだろうか。不可能なことをなそうとしている「説教」の機微について書いた以下の文章を紹介する。題して「あなたの経験の水準」(『真理のための戦い』オズワルド・スミス著 松代幸太郎訳1960年初版58〜60頁より引用)である。

 ここに偉大な教訓があります。ほんの少数の人々しか知らない教訓です。あなたは、他の人々を、あなたのする説教の水準にまで高めることはできません。あなたの教える水準にまで高めることもできないのです。あなたはただ彼らを、あなた自身の霊的経験の水準にまで高め得るだけです。(※引用者註「霊的経験」とは人と神との間柄のことを指すと一先ず考える)彼らはあなたのようになるのです。
 
 それゆえあなた自身が深い霊的経験に達し、かつそれを維持 することが重要となります。りっぱな説教をする多くの牧師は、なぜ会衆がその説教の水準にまで向上しないだろうかとふしぎに思っています。しかしそれは絶対不可能なことです。牧師のように、会衆はなるのです。牧師は人々を彼の経験の水準までは引き上げることができます。しかし、彼の説教の水準までは引き上 げることができないのです。

 もしあなたが霊的な結果を望むならば、あなた自身がまず霊的にならなければなりません。(※引用者註「霊的になる」とは「神に信頼する」と読むことができないだろうか)あなたは深い真理を説教し、あるいは教えることができるかもしれません。しかし、あなたの生活があなたの言うところと一致していないならば、あなたの説教を聞いた人々の生活があなたの説教によって少しも変化しないことを見いだすでしょう。重要なのは、あなたがどのような状態にあるかということです。

 神の御命令は不変です。あなたのかわいがっている犬は、決してあなたの子供に変わることはありません。どんなにあなたがその犬を教育しても、犬は犬であり、 いつまでたっても犬なのです。果物は常に果物を生み出すのであり、それ以外のものを生み出すことはありません。「肉から生まれる者は肉である」のです。

  換言すれば、肉欲から生まれるものは肉欲です。この世的なものから生まれるものはこの世的なものです。霊的なものから生まれるものは霊的なものなのです。 あなたのうちにある霊的なものは、他の人々の中に霊的なものを生み出します。それゆえ、パウロがテモテに向かって「自分のことに気をつけなさい」と言ったのも、驚くにあたらないことです。

 このことは、説教の最も重要な要素は、説教をする人にあることを意味しています。講壇への最善の準備は、神とともなる経験です。単なる神学者は説教者としては落第です。クリスチャンとしての経験を阻害するものは、すべて彼の説教の効力をも減殺するのです。人格こそ最も重要な要素です。論理でなく生活がたいせつなのです。経験があって教理のないのは、教理があって経験のないのにまさります。人は説教の準備をするだけでなく、自分自身をそれにふさわしいように備えなければならないのです。どのような人であるかということ が、彼の説教の力を決定するのです。

 敬虔な生活によって生み出された説教は、ほとんど抵抗することのできない力を持っています。説教者の権威は見えざるキリストから来るのであり、彼の力は聖霊から来るのです。説教者は、見えざる世界に親しんでいる人であると見られるような生活をしなければなりません。彼の生活は、キリストとの交わりの結果として、純潔であり、強靭でなければなりません。なぜなら、その時はじめて彼は、特別の力をもって語ることができるからです。

 重要なのは、彼が何を語るかではなく、彼がどのような経験をしているかということです。彼はたえず神の御前に出て、霊的な生活を送っていなければなりません。

 読めば読むほど含蓄のあることばの文章である。結局彼が言っているように、説教の力は見えざる神から来るものでしかないことがわかる。

自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。(新約聖書 1テモテ4:16)

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