2013年4月13日土曜日

神の民は、目覚めなければならない。

高山・平湯から眺望する笠ヶ岳(?)2013.4.8
神の民は、神の招きの言葉を、聞いた人たちである。ただ、神の言葉を聞くことによってのみ、神の民になることができる。「信仰は聞くことから始ま」るからである(ローマ10・17)

この神の招きによって、神を信じる群れに、不思議な神の働きが始まった。その神によって贖(あがな)われた者については、わたしたちには、十分に考えたり、語ったりすることさえも、よくできない。かれらは、救われ、和解され、解放され祝福された者(コロサイ1・13〜14、エペソ1・3)、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」(コロサイ3・12)、神のめぐみの器、力ある父なる神の子、王の子、天国の民なのだ。

まだ多くの不完全さや、弱さがかれらの中にあったとしても、神に属する者たちのうちには、神の聖霊が働いていることを、わたしたちは信じている。またわたしたちは、キリストに従う者のうちに、キリストの姿を見ることができる。実にキリストご自身を、わたしたちの兄弟たちのうちに見ることができる。お互いのうちに見出されるキリストによって、わたしたちは心の底から喜びをもつことができる。「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります」(詩篇16・3)。

このほかに、まだ大切なことがある。それは、神に属する者が、新しく目覚めることなのである。近年世界に起こった重大事件のうちに、神の激しい警告があった。それにもかかわらず、真に大きく、永く、広く感化を及ぼすような信仰の復興は、ヨーロッパのどの国にも起こらなかった。このことは、非常に悲しむべき事実である。

神の霊は、たしかに部分的な働きを、多くの町や地方で行なった。大衆には、福音が力強く伝えられた。キリスト信者は励まされ、信者でなかった人も、多数新しい信仰に導かれ、喜ばしい救いと感謝の歌が、教会に、天幕に、集会場に、家庭に響き渡った。これらの町や地方でなされためぐみの働きについては、わたしたちはどんなに神に感謝してもしきれない。

けれども、信者の中には、まだ世俗的な心が非常に強い。余りにも多くの、この世に対する執着と心づかいや、狭い利己的な考えや、自分の小さな群れの者だけをかばおうとする排他的な党派心をもったり、以前に意味を失ってしまったような、しかも、聖書の中にも、たしかな裏づけをもたない古い形式的なものを固執したり、あまり重要でないことを、強調し過ぎたり、また反対に、大切なことのほんとうの価値を、無視したりすることがよくある。

わたしたちは、真剣に、次のように、自問してみる必要がある。わたしたちの耳は、戦場のとどろき、爆撃機のひびき、石垣や壁が崩れ落ちて家屋が破壊される音、数百万の老若男女の死んでゆく呻き声で、すっかりつんぼになり、神の声が聞えなくなったのであろうか。

疑いもなく、そのようなところには、罪の力が働いている。それは、神の力でなく、神から離れて、この世で働く悪魔の力(詩篇2・1〜3)である。しかし、この破滅のとどろきの中にも、神は、悪魔の力を、背後から圧倒し、最後には、強い力をもって、かれらを完全に支配し(エレミヤ51・20、イザヤ45・1〜7参照)、「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」(詩篇46・8)と語られる。

それでは、どのようにして、神は、これから続けて語られるのであろうか。世界の指導国家は打ち砕かれ、町々は廃墟と化し、古い、かけがいのない貴重な美術品の多くは破壊され、何百万の人が殺されたのだ。神の審きにより、神を離れた罪人たちは、悲惨な結果を自ら招いた。

このような、悪魔に動かされている人類の歴史の渦巻きの真只中にあっても、神の民は、神の声を、はっきりと聞き分けるべきであった。力に満ちたあかし、熱心な伝道、犠牲的精神、聖化を求める心、兄弟愛の実践、永遠に生きる者であるクリスチャンの行ないとその実、それらのものを、この世の人に示すことが、どれほど必要であったかわからない。

しかし全般的に見るとき、現実は、それとは全くかけはなれて、それらのものは、ほとんど見られなかった。

わたしたちキリスト信者が、ほんとうに目覚めないで、どうして信仰のない者が、目覚めることができよう。わたしたち自身が「燃え」ないで、どうして「火」が燃えあがろう。わたしたち自身が、ほんとうに、「生命(いのち)」によって満たされないで、どうして、生命(いのち)のあるものが生まれよう。

神の民は、どうしても、目覚めなければならない。わたしたちは、生命(いのち)を与える上よりの力を、新たに、身につけなければならない。生きておられるキリストが、わたしたちのうちのたましいのうちに実在し、わたしたちのすべてのものを、捕えなければならない。

(『信仰の完成をめざして』エーリッヒ・ザウアー著長谷川真訳序言より引用。この本は第二次世界大戦終了後1952年ドイツ語で書かれたものである。日本での出版が1958年であり、比較的翻訳は早かったが、どの程度この良書が普及したのだろうか、心もとない。高度成長期前夜の日本人はキリスト者もふくめて見向きもしなかったように思える。この前の家庭集会のとき、一人の方はベックさんのメッセージを聞いて、心が燃やされたと言われた。それは霊の覚醒を指すことばだ。2013年の私たちが半世紀以上のこの一人のドイツ人の訴えの背後にある神の声に耳を傾けることは決して無駄ではない。明日は後半を掲載する。)

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