2013年4月14日日曜日

キリストを仰ぎ見て歩む喜び

※笠ヶ岳   2013.4.8
 わたしたちは、偽善的な「おとなしさ」を捨てて、聖いわざのために、積極的に働かなければならない。わたしたちは、キリスト信者の生活が、「競技」「競争」(第一コリント9・24)、「信仰の競技場」での「試合」であるという考え方を、たえずもつように心がけなければならない(ピリピ3・14、ヘブル12・14)。「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません」(第一コリント9・26)。

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20・24、第二テモテ4・7)。「そうすれば、私は、自分の走ったことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます」(ピリピ2・16※一部口語訳採用)と聖書の記者も言っている。

「賞品」は、優勝者の手に入るのを待っている(第一コリント9・24)。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3・14)。

「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(第一コリント9・24)と、パウロは勧めている。

しかし、キリストを仰ぎ見る者だけが、勝利を得るのだ。キリストもまた、闘士であった。かれは、まず先駆者となり、勝利者となられた。それゆえ、かれは、わたしたちの模範、力の源、また賞品の授与者となられたのである。

今、わたしたちに必要なのは、贖罪主の人格をあらたに見、十字架を思い、その道に従い、信仰生活の実践に努め、わたしたちの上に豊かに注がれる神のめぐみを、感謝して受けることである。わたしたちは、神の霊の力によって、全く捕えられ、その力によって満たされ、わたしたちの召された目標にまで、神の力によって、走りぬかなければならない。

さらにこまかくいえば、苦しみや悲しみの試練にも耐え、思い煩いを棄て、すべての霊的倦怠を克服し、つねにあかしをたてる心構えと、積極的な伝道精神とをもたなければならない。兄弟愛と聖化、祈祷と神のことばの黙想が、わたしたちの日々の生活の特徴とならなければならない。これらのことができるようになって、はじめて、天国の栄光を目指して、着実な歩みをなすことができる。

これが、この本を書いた目的であり、また特に「ヘブル人への手紙」第12章の説いていることであるといってもよい。過去に語られた神のことばは、いまも、わたしたちの励まし、また戒めとなる。昔のことは、現在の神を信じる者に必要な、信仰復興への呼びかけとなる。

岐阜県立斐太高校の桜    2013.4.8
実は、この真理の中に、わたしたちと神との親しい交わりの秘訣が隠されている。大切なことは、十字架につけられ、死から甦られたキリストを親しく知り、今、自分が神の救いにあずかっているという確信をもち、贖われた者が天国でもつようになる身分を再確認し、キリストにある聖霊の豊かな祝福を喜び、感謝の心をもって仕えることである。

またそのほか、わたしたちは、自分の不完全さを率直に認めることを忘れてはならない。わたしたちは、「実践的聖化」を追い求める責任があることを、自覚していなければならない。有効な伝道のあかしをするためには、犠牲を惜しまない心構えと、この世のあらゆる試練に、着実に耐えてゆくことが必要なのである。祈りと神のことばをとおして神と交わり、全き献身、清新な信仰 、目標を目指す絶えざる努力、責任の自覚、聖なる熱情、キリストの栄光ある再臨のあることを喜び、それを待ち望む心をもたなければならない。

これらのことはみな、救いの泉であるキリストによって、はじめて実行できるのである。「あなたはわたしから実を得るのだ」(ホセア14・8)。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13・8)。人間の現実の経験の中に、現実に働かれる神のみが、わたしたちを助けることができる。だから、かれの人格にほんとうに、触れることができるという信仰と、かれが臨在されるということを期待する信仰をもたなければならない。かれはいつも(ピリピ4・5)、また、いたるところで、わたしたちとともにおられる。彼の臨在こそわたしたちの救いなのである。自分のささやかな経験をふりかえって考えてみても、キリストは、どのようなときにも、変わらざる助け手であることを知っている。この常に臨在される、生けるキリストこそ、どのような境遇にあっても、喜んで、助けることのできるおかたなのである。

(『信仰の栄冠をめざして』エーリッヒ・ザウアー著 長谷川真訳 序言より引用。こうして総頁266頁に達するこの本の叙述は始まる。それほど大部な本でもない。かと言って小著では決してなく、良書中の良書であることはまちがいない。だから、追々紹介していきたい、※笠ヶ岳の山頂目指して一歩一歩登るがごとく。) 

0 件のコメント:

コメントを投稿