2013年4月5日金曜日

胸いっぱい、神を「経験」する喜び

何たるつぼみ、全地球に何と数多くの新生命が芽生えていることよ、神を怖れよ!
つぎに神は、おののいている魂をとって神のひざにのせ、神の永遠のみうでで彼をいだき、痛んでうれいている魂にささやきたもうのです。「あなたは今、私の子どもです。恐れることはない。かつては恐れおののく理由をもったのだが、今はないのです。あなたは罪に死んだのです。そして私は、生命において、死において、またさばきにおいてあなたを助けるために生きているのです。私の恵みは、あなたにとって十分です。それ以外何もいらないのです。私はあなたの友また保護者です」と。

驚いている罪人は、このことをすぐには、つかまえることも、理解することもできません。罪人は、神のひざの中にすわって涙を流して泣くのです。時々、この人はほのかな光を見ますが、たいがいは、この人の目にとって何もかもくらやみです。しかしながら、アサフに真であったと同じように次のことは彼にとっても真であります、「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です」(詩篇73・26)。どのようなことが来ようとも、真剣な祈りと告白の中で、この人は神にすがるのです。

そこで次のことが起こるのです。

上からの光が、魂のやみの中にさしこみます。この人は、天のかがやく光の中ですべてのことを見るのです。イエスはこの人の罪のために死にたまいました。この人は神の子です。救い主のほかには何もいりません。それはこの人の心が、喜びにはりさけたかのようです。罪人を救うすばらしい神に感謝をし、賛美と喜びの歌をうたいます。

今や、神を愛するようにこの人に告げてやる必要はありません。この人の魂は神に対して感謝にみちた愛でいっぱいです。霊的に言えば、ちょうど小さい子どもが、長い旅から母が帰った時、母の首をうでで抱きかかえるように神に近くからだをよせるのです。 (中略)

なぜでしょう。子どもは、母とともにいるように母から生まれているからです。神から生まれたものもみなそうなのです。神とともにいるように神のところへ生まれたのです。いつも神と語ることができなくても、神のいましたもうところにいる時幸福に感じるのです。ちょうど子どもとおなじです。おしゃべりやひとりごとが上手でも、子どもは、のべつまくなしに母親に話しかけていることはできません。

キリスト信仰のほんとうの中心と秘義は神経験です。人が、ただ神について考え、神を仮定し、神を求めて神に達しようとする間は、神に対する関係は、主として、理論的なまた実際的な問題の混乱でありましょう。しかしながら、人が神を経験するその瞬間から、このことはみな全体的に変えられるのです。パウロは、これを次のようなことばで言い表わしました、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5・17)

このことは問題の性質そのものにあるといってもよいでしょう。私どもは、神を経験し神の前で生活をいとなむように造られています。そして、神とは私どもが神を経験さえするならば、私どもの生活の中の他のいっさいは、適当に方向づけられるようなおかたなのです。というのは、私どもの心は正しくせられて、そのことが生活関係のすべてのことにおいて正しい態度をとるのに必要な条件を私どもに与えるからです。

神は私どもの心をとらえてこれをにぎりしめ、このようにして私どもを神に結びつけたもうようなおかたなのです。私どもは、自分にいっしょうけんめいになる代わりに神にいっしょうけんめいになるのであります。私どもに対する神の愛が、読んだり、聞いたり、話し合ったりしたようなものだけでなくて、私どもが経験したものとなるとき、それは、私自身の魂を満たし、魂に新しい内容を与えるのです。私どもはまた、罪に対して新しい関係にはいるのであります。

(『私はなぜキリスト者であるか』132〜136頁より抜粋引用。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」ヨブ42・5〜6

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