2013年4月17日水曜日

光に照らされることの大切さ(パウロの場合)(上)

咲き始めのクレマチス
引用聖句 使徒26・1〜20(新改訳聖書二版258頁)

今読んでくださったところは使徒パウロの回心についての箇所じゃないでしょうか。人生について一番大切なことは何でしょうか。パウロの経験したことです。パウロは上からの光によって照らされました。結果として、もうお手上げになりましたし、助けを求めましたし、それから、よろしく導いて下さい、という態度を取るようになりました。上からの光に照らされた人々は変わります。結局、新しく造り変えられるようになります。それから安心して前向きの生活を送ることができるようになります。今読みました26章13節〜15節の中で

その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

この最後の文章は、彼にとって何を意味しているか想像ができない(ほど重大であった)。彼の考え、経験したショックとはちょっと想像できない。その時の彼はイエス様を迫害するつもりはなかった。このイエスは大嘘つきだったし、詐欺師だったし、十字架につけられたのは当然だ。ですから、死んじゃったのは良かった(と考えていた)。ある意味で彼が理解できなかったのは、相変わらず殺されてしまったイエス様を信ずる人がいたのです。自分に与えられた使命はキリストに対する思い出を消すことでした。だから、イエス様を信ずる者を命がけで迫害しました。何人の人が刑務所に入れられようになったのか、殺されたのか、わかりません。結局彼の思ったのは十字架で殺されたイエスはもうおしまい。

けれども彼は聴いたのですね。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』考えられないことでした。彼は結局相変わらずイエス様を信ずる人々の大迫害者でした。けれども、光に照らされて天からの声を聴いてショックを受けました。

『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』

そして 答えは「わたしは、イエスである。』ということでした。パウロはこれだけ(は)予想しなかったでしょう。イエスという者はまだ生きているのか?十字架の上で死んでしまったのではないのか?このイエスに対する思い出を殺すために、私はエルサレムだけでなく、イスラエルの国だけでなく、外国まで行っているじゃない(でしょう)か。イエスは生きている。彼の経験したショックとは、もうちょっと考えられない大きなものでした。

けれども、彼は光に照らされた瞬間からイエス様によってとらえられてしまいました。閉じ込められた、監禁されてしまったのです。それから、イエス様のために生きたい、イエス様を紹介したい気持ちで一杯になりました。すなわち、上からの光に照らされたことによって、自分自身の本当の心の立場を、状態を見ただけでなく、イエス様の価値、イエス様の偉大さをも知るようになったのです。あとで彼は説明しました。

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

われわれも同じように言うことができなければ、ちょっと大変です。「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けた」と。結局、私の心の眼は開かれたから、もうとらえられてしまったということです。あとで彼はもちろん当時のネロという皇帝を拝もうとしなかったから、刑務所に入れられるようになりました。(私は)刑務所に入ったことがないけれど、いいところではないと思う。いやー、大変だったと思う。棒で殴られたり、食べ物も食べ物と言えないものであったでしょうし、けれども、刑務所の中で彼は手紙を書いたのです。彼は刑務所に入ってから急に暇人(ひまじん)になったのです。手紙を書く暇があった。普通だったら、そんな暇がなかった。だから、そのために刑務所に入ったのではないか。刑務所の中で彼は書いたのです。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ3・8〜9)

結局、イエス様とは彼にとってすべてのすべてでした。キリストを得ることによって彼は結局富む者となりました。イエス様によってとらえられたパウロの使命はいったい何なのでしょうか。もちろん、考え方・目的は全部変わったんです。次のようなことを聖書は言っています。

わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26・17〜18)

と、あります。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。(1ヨハネ1・5)

と、あります。主なる神は、ご自身を「光の父」と呼んでおられます。神に与えられる名前は一杯です。たとえば、「望みの神」。いい名前ですね。「望みの神」が生きておられるかぎり大丈夫。あきらめる必要はない、落ち込まなくても良い。「望みの神」が必要なものを必ず与えられます。この主とは「光の父」とも呼ばれています。

悪魔の罪の結果は荒廃と闇夜でした。神は見よ光(と言われ)ました。だから地は闇夜となったのです。けれど神のことばによって光ができたと聖書は言っています。創世記の一番初めの箇所ですが、創世記1章 2節と3節を見ると次のように書かれています。

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

神にとって簡単です。ひとことば言ってできた。詩篇の作者も同じことを告白したのです。

まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。(詩篇33・9)

(4月11日、都内の集まりで語られたベックさんの話が収録されたCDの聞き書きであるが、三回に分けて掲載する)

0 件のコメント:

コメントを投稿