光浴び モッコウ咲く 春暖 |
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
とあります。一つの人格、すなわちイエス様を受け入れることが大切です。だから、聖書ははっきりと言っています。すなわち、どうか福音を信じ、イエス様のために、どうかあなたの心の扉を開き、イエス様を心に受け取ってください。イエス様は今、はいることを待っておられます。はいることを心から願っています。黙示録の中ですばらしい箇所があります。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示3・20)
食事をすることとは、一緒に食べることよりも、親しく交わりを持つことです。私たちはイエス様が扉をたたいているのを聞いても、扉を開けないままでいるのか。言うまでもなく、イエス様は強制しません。他の言葉で言いますと、鍵はただ内側に、人間の側にある、ということをたえず考えるべきです。人間がその扉を開かなければならない。扉を開いた瞬間、イエス様ははいってこられます。「わたしははいりたい」と主は願っています。どうでしょう。イエス様を受け入れるのでしょうか。この恵みの提供を受け取らないという(のでは)いつか後悔(すること)でしょう。遅く(なってしまう)かもしれない。
大切なのは光に照らされることです。どうしてでしょうか。光に照らされることとは「新しく生まれ変わる」ことを意味するからです。それから、「救い」を自分のものにすることです。また三番目ですが、光に照らされることとは「主に立ち返る」ことを意味します。テサロニ ケ第一1・9次のような言葉が書き記されています。363頁ですね。
私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
云々とあります。光に照らされる、照らされた人は、生けるまことの神様を礼拝することだけが本当の礼拝であり、他の礼拝全部が偶像礼拝であると知っているのです。私たちはいったいどうしてイエス様を信ずるようになったのでしょうか。わかったから、理解したから、勉強したからでしょうか。決してそうではない。前に読みました箇所、もう一回読みます。ガラテヤ1章
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
16節
異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
云々とあります。二ヵ所で「啓示」ということばが出てきます。主なる神が御子イエス様を私たちのうちに啓示してくださることは、それが問題です。これこそがわれわれの生活の根本であるべきです。使徒行伝の14章にまた書いています。
「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。(使徒14・15)
云々とあります。光に照らされることが大切です。どうして、今話したように、光に照らされることとは、先ず第1番目、「新しく生まれ変わる」ことである、2番目、「救い」を自分のものにすることである。3番目、「主に立ち返る」ことを意味しているからです。そして、4番目、「悔い改める」ことを意味するからです。ルカ伝の15章、次のように書かれています。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカ15・7)
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15・10)
悔い改めることは考えらないほどたいせつです。救われる条件です。悔い改めることとは、悔い改めとは、罪を認め、告白し、捨て、憎み、抑制することです。自分の罪を認めることとは、主から与えられる大きな贈り物です。誠実な告白をするということは、もっともっと大きな贈り物です。けれども、その罪人が自分の罪を憎み、捨てるならば、そしてもとどおりに抑制するならば、それは主なる神の目的を達したことになります。悔い改めることは百八十度転換することです。光に照らされた人は罪を犯したくないと思っています。もちろん日々罪の試みと力を感じます。また自分の弱さを知っています。光に照らされた人は、自分の力で自分を救うことは絶対にできないと悟った人々です。 光に照らされた人は自分で自分を救う努力が無駄であることを教えられた人です。
もう一つ、光に照らされることとは何でしょうか。「赦し」が提供されている、ということです。これもすばらしいことではないでしょうか。主を信じ、救われた人々は次のように言うことができたのです。エペソ書1章7節
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
ローマ書の中で似ている箇所があります。3章24節
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
とあります。私たちはイエス様の働きによって、イエス様の流された血によって義とされました。ですから、私たちはイエス様の働きによってのみ、義とされるのです。 私たち自身の行ないや手柄によっては決して救われ得ない。義と認められない。われわれの義とされる根拠はただ一つ。それは何でしょうか。それはイエス様のシミのない義、すなわち汚れたところのない正しさ、私たちが当然受けるべき刑罰をイエス様が支払ってくださったこと。ここに私たちが義とされる根拠があります。
私たちは、免れがたいただ一つの選択を迫られています。私たちは、自分の罪を欲しいか、それとも十字架にかかったイエス様を欲しいかのどちらかです。私たちは罪過の赦しを受けたと言えるでしょうか。その咎が赦され、その罪が消される者は幸いであると、3000年前にダビデという王様は告白して証したのであります。光に照らされることとは考えられない(ほど)大切です。なぜならば、それによって新しく生まれるし、「救い」を自分のものにすることができるし、「主に立ち返る」ことも体験的に自分のものとすることができるし、「悔い改める」ことこそがすばらしい贈り物、そのものです。
イエス様のところに行く人は何を経験しますか。イエス様は決して捨てない、喜んで受け入れ(てくださ)るということです。
註:かっこ書きにしたところは、いずれも語られたことばではわからないので、推測して補ったものである
0 件のコメント:
コメントを投稿