2013年4月26日金曜日

限られた人生、何を残すか(上)

葬儀会場となった「悠久の丘」から新緑を眺める
「限られた人生、何を残すか」という題に思い至ったのは言うまでもなく、その宇都宮の方の召天をとおして考えたことであった。もとより「限られた人生」とは、自分のまわりで次々に知っている方々が亡くなって行かれる時、どんなに鈍感な人間でも心の奥底では感じざるを得ない、次は自分の番だという漠然とした不安・恐怖をともなう言辞ではないだろうか。しかし、自分は知らないが、生けるまことの神さまご自身がはっきりとしたご計画をもって、わが人生の終わりの時を定められていると知れば、心は自ずと平安に満たされ、限りある人生をどのように生きれば良いか、人は前向きに日々の生き方を選びとることができるのではないだろうか。

宇都宮の召された方は私よりほぼ一回り上の世代で、私とは10数年間、親交のあった方であった。もともと若い頃、肋膜をやられたということであったが、昨年腹部に動脈瘤ができても動揺せず、淡々としておられた。ところがその方はさらに8月には肺がんが見つかり入院されることになった。死を覚悟し、治療の道を選ばず10月以降は緩和ケアーを選択された。最後の月日は病から来る痛みとの闘いであった。こうなると家族の介護が絶対必要である。幸い三人のお子様家族は総力を結集して介護に当たられた。そのような介護の真っただ中、多くの主にある兄弟姉妹が足繁くお見舞いされたと聞いている。私もベックさんたちと一緒にほぼ一月前にお見舞いさせていただいた。

その時は、ベッドを起こしてまで精一杯応えてくださり、なお、みことば(=イエス様)に対する恐れと愛を切々と語られた。日によって、幻覚症状が出たりするのであろうが、私たちのお見舞いした、ちょうどその時は、そのような症状は出ず、元気で喜ばれたお交わりのひとときとなった。最後に皆で心を合わせお祈りしお別れした。しかし、その後、日ましに病は進行し、この日曜日の夕方に息を引き取られた。家族全員の見守る中だったと聞く。

最近の高齢化社会から言うと、82歳というその年齢は少し早いと言えなくもないが、主の最善のときであったことが十分うかがえた。なぜなら、お亡くなりになったその夜、ご子息から、その二週間前にお父さんと二人きりで過ごした、あとにも先にも無い親子水入らずの貴重なひとときのお話をお聞きしたからである。その中心は気がかりであった我が息子の心的状態を父親として最後にどうしても確認して置きたかったということのようであった。つまりご子息が神への不信仰と人への不信という心のわだかまりから解放されているか、いや、解放されて主イエス様を信じて欲しいと言うのが、そのお父上の最大の願いであった。

その時、ご子息はほぼ同時に自らも罹患した筋肉腫の病の中で、死の恐怖を前にして自分を主に明け渡す幸いを経験しておられた。決してご子息の前では弱音を見せない父親として、その方は、自らの癌に嘆くこと以上に、ご子息の癌発病を悲しみ、人知れず涙を流しておられたのでなかろうか。ご子息はご子息で、お父さんをふくめ身内の者にこの時期、癌発病を打ち明けていいものか悩まれた。それは主なるお方がお二人に期せずして同時に働かれたとしか言えないできごとであった。その総決算ともいうべき時が、病状の進行するせん妄状態の日々の中で一瞬訪れたお父さんの意識がハッキリ回復したその日、その時であった。父子は互いに自由に真情を吐露し赦し合うことができた喜びで涙を流されたという。地上での語らいの最後の時であった。

そしてその方は、その話の中でご子息に、自分の葬儀はおまえの自由にしなさいと言われたと言うことであった。その時、ご子息は長年小さい時から背負わされてきた父の期待感からやっと解放されて重荷がいっぺんに降りたのですと述懐された。葬儀をお前の自由にやりなさいと言われたその方はご子息のために詳細な自分史を一冊のノートにしるし渡されていた。私もその一部を見せていただいたが、一読して豊富なその方の人生のすべては一つとして主によって覚えられていない出来事は無いと言う気がした。第三者にはわからないかもしれないが、親子にして初めて分かる、しかも一本の「信仰 」というはっきりした筋金をご子息に託された、残された、そんな思いがした。

その葬儀が水曜日に行なわれた。当日は生憎小雨の降る一日であった。雨が降ると人の気分は滅入る。お葬式になれば格別だ。しかし、ご子息は最後のご挨拶の中で、みなさん、この雨は悲しみの涙でありません。喜びの涙です。人は死んで終わりではありません。必ず天国で再会できるのです、という意味のことを話された。これまで何回かの葬儀に臨席させていただいたが、司会者が終わりの締めくくりにそのような発言をする例は知っているが、ご遺族を代表する挨拶として聞くのは久しぶりのような気がした。

ご子息の口を通して、計らずも、主イエス様の福音は死を越えるもの、復活を喜ぶものとして語られた。まさに普通の葬儀とは異なるご子息の手作りの葬儀となった感があった。多くの日本の同胞が読経の続く中、分けも分からぬまま、ただ闇雲に空(くう)に向かって死を悲しみ、故人を偲ぶしかないのとは全く異なったものだった。はっきりとした意志をもって後事を一切お子さん方に託すことができたお父さんは限られた人生の中で「主イエス様に対する信仰」を残して召された。

ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラエルに聞け。・・・ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。(創世記49・1〜2、33)

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