2013年4月25日木曜日

限られた時間

雨上がり 聖句看板 朝日受け
昨日は小雨の中、10時38分発の電車に乗るため道を急いだ。最寄りの駅は自宅からほぼ10数分で歩いて行ける距離のところにある。この日はちょうど拙宅で家庭集会が10時半から開かれる日にあたり、当然ホスト役として自宅におり、皆様をお迎えするのが段取りなのだが、この日ばかりは宇都宮で親しい方の葬儀が午後二時からあり、そちらに出席する方を選んだので、家庭集会は急遽別の親しい方におゆだねして出かけることにしたのだった。

家は10時25分過ぎに出たのであろうか。駅まで13分の行程であった。ぎりぎりであった。晴天なら自転車で飛ばし、楽勝であったが、雨が降り、その上、風もあった。傘を差しての歩行はなかなか思うように捗らなかった。腕時計を何度も見ながら、途中小走りに何度か走らざるを得なかった。これでは38分に間に合わない。だから必死であった。

一方では、朝から出かけて来るまでの行動を思い、一つとして無駄なことはなかったことに思い至る。久しぶりに来られたAさんと玄関でご挨拶もできたし、何よりも遠くから来てくださったメッセンジャーのKさん、また証をしてくださるGさんやそのご友人として初めて来られたUさんとも挨拶を交わせた。その上、司会を急遽お願いしたKさん、掃除、録音、台所のご奉仕をしてくださる方、実に様々な方と出掛けのごく限られた時間の中で、ご挨拶できたのだった。中には事情をご存じないため、私の喪服姿を半分いぶかしげにご覧になる方もいらっしゃった。

このようなことを思いながら、一秒一秒と時が経過して行く、「限りある人生」そのものを思わされた。このところ親しい方々の葬儀に何度か出させていただく。前日の火曜日にも吉祥寺の葬儀に出させていただいたばかりであった。私も70歳、そろそろいつ召されてもおかしくない年齢だ。そして人生とはどんなに長いように思えても、あっと言う間に過ぎ去って行くのがつねだ。駅までの決められた時間を我が身は急いでいるが、自分は知らないだけで、やはり主なる神さまが決められた召される時間に向かって、自分は進んでいるのだと、その10分そこらの間の歩行の時考えさせられたのであった。

もちろん、目下は乗れるか、乗り遅れるかの瀬戸際をかけての必死の歩行を続けていた。駅近くに来た時にはあの特徴あるジュラルミン色の地下鉄車両が下り線ホームに入って来るのが視野に入る。ああ、だめだ。乗り遅れだ。でも田舎と違って電車は一時間に何本も上り下りしている。とにかく急げるだけ急いでみようと駅に到着し、切符を買うのももどかしく二番ホームに向かうべく地下道を急いだ。この時、すでに時遅し、10時38分だった。構内アナウンスが流れた。「・・・のため、電車が遅れまして、まことに申し訳ありません・・・」38分発の電車も遅れていた。やっと間に合った。主イエス様の恩情にちがいない。

ゴールがいつかわからず、人は日々生きている。しかし、たまにはこんな視点も大事ではないか、「限られた人生、何を残すか」。明日はそのことを考えてみたい。

私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。(詩篇139・15〜18)

(次回の家庭集会は5月8日午後2時からです。) 

0 件のコメント:

コメントを投稿