2013年4月18日木曜日

光に照らされることの大切さ(ニコデモの場合)(中)

ボリッジ
光のない世界はどんなでしょうか。考えることができませんが、喜びのない世界であることは確かでしょう。光は主なる神から出る。いのちの力です。光は「いのち」であり、闇は「死」です。

神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

何と、簡単なことでしょう。何という神のみわざでありましょうか。パウロも書いたのです。

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(2コリント4・6)

私たちはすでにこれを経験したのでしょうか。主なる神はわれわれの生活に、またわれわれの渇きのうちにすでに語りかけたのでしょうか。「光あれ!」人間の生活にも回復の奇跡が行なわれます。それは十字架への道です。もし神の霊がわれわれの心の奥底(に住まわれるなら)、その時からわれわれの心の目は開け、罪人であることを悟り、イエス様なしには永遠に滅びることを知ります。いくら顔が汚く、汚れていても、夜では見ることができません。そんなとき、灯りがついたら汚さに驚いてしまいます。上からの神の示しがないかぎり、光に照らされることがないかぎり、誰も自分の心の汚さを認めることはできない。私たちの不幸な暗い心のうちに、「光あれ!」と言う主の御声がかかったときに、私たちは新しく造り変えられます。もし、主なる神が今日われわれの暗い心に「光あれ!」と言われれば、われわれの心に光が射し込みます。

イエス様は約束してくださいました。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

いのちの光とは、イエス様ご自身を持つことです。イエス様は光を与えるお方であるだけでなく、光そのものです。私たちはすでにいのちの光を持っているでしょうか。もしもイエス様に従わなければ、その光を持つことができません。選ぶことが必要です。私たちはイエス様の光を持っているのでしょうか。あるいは自分の闇を持っているのでしょうか。意味はイエス様を光として受け入れるか拒むかのどちらかです。

光あれ、すると光があった

と経験する人は本当に幸いです。光に照らされることとはいったい何でしょうか。まず言えることは光に照らされることは、新しく生まれ変わることです。イエス様は当時言われました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ3・5)

結局、新しく生まれ変わらなければ、まことの救いを経験することができない。すなわち、宗教を持つことは大切ではない。主の光に照らされることこそが大切です。当時のよく聖書を勉強して主なる神を恐れて、けれども、本当の満足を知らなかった男がイエス様のところに行きました。ニコデモという男です。ユダヤ人の指導者でした。非常な立派な尊敬された人格者でした。イエス様でさえも彼に何と言ったかと言いますと「あなたはイスラエルの教師である」と言われました。彼もほかの聖書学者たちと同じように、毎日祈るために宮に上りました。また、彼は確かに週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげました。しかし、彼は神の国を見ることができなかったのです。なぜなら、彼はまだ神の光に照らされなかったからです。彼ははじめからイエス様を「先生」として理解していました。しかし、彼はあとで光に照らされて、「主」を信じたに違いない。ヨハネ伝7章の中で次のように書かれています。

彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」(ヨハネ7・50〜51)

と彼は言ったのです。残念でした。(他のパリサイ人は)聞く耳がなかったのです。それからもう一回、ヨハネ伝19章39節で次のように彼について書いたのです。

前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。(ヨハネ19・39〜40)

と、あります。このニコデモは光に照らされたから、結局信ずるようになった。新しく生まれ変わった男になりました。光に照らされることこそが考えられないほど大切です。なぜならば、光に照らされることとは、まことの救いを経験することを意味しているからです。エペソによる人々にパウロは書いたのです。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2・8)

贈り物です。すばらしいプレゼントです。多くの人は、働きによって、行ないによって、勉強することによって、がんばることによって、救われると思い込んでしまったのです。「救い」を、働いて自分のものにしたいと思っています。しかし、神の光に照らされた人は、まことの救いは、完全にただで、価なしで得られること(だと知っています)。イエス様の与えられた救いは、お金なしに、値段なしに受け取ることができます。もし私たちがイエス様のところに行くなら、そして私たちがイエス様が十字架で完成された働きにまかせるならば、そしてまた、私たちがこの瞬間イエス様に頼るなら間違いなく救われます。

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